随筆あれこれ |
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そんな世界はないだろう。あるとは思えぬ。 たとえば子どもの頃私が求めていたのは、そのおわらぬ世界であった。夜が来てもいつまでも起きていられる世界。ケーキが毎日食べられる日々の世界。夕方になっても母に叱られずに友だちといつまでも遊んでいられる世界。たぶん今はだめだが、大人になれば私はそういう世界が手にはいると思って疑わなかった。 早く大人になりたい。それは永遠を手に入れたいということであった。大人になれば永遠が手にはいる。 しかし大人になった今、私の手にはいったものは、おわらぬ世界どころか、おわりばかりある世界である。 この世の中にあるものは、必ずいつかおわってしまう。 一日は二十四時間でおわる。映画も二時間でおわる。セックスも十五分でおわってしまう。愛にもおわりがあり、早ければ一度寝ただけで、もう二度とその女の顔なぞ見たくなくなる。 いったいどこにおわりのない世界があるだろう。 おわりのない関係、おわりのない政治情勢、おわりのない問題という言葉はあるが、これは言葉の誤用であろう。 「吾々は死滅する季節からはなれて、永遠を求める身ではなかったのか!」とランボオの詩の一節だが、大人になって、世界はいつかおわるということをこれほど知っているのに、私はこの言葉にひかれる。 まだ私のこころに少年の熱情が残っているのだろう。 それにしてもランボオのみつけた永遠とはなんだろう。 又みつかった 何が 永遠が 海と溶け合う 太陽が 海と溶け合う太陽とは昼のおわりであり、夜のはじめである。その瞬間にみつかった永遠とはどんな永遠だろう。 恋のさなかにある時でさえ、私はこの恋はすぐにおわるだろうと思っていた。女の愛の告白に喜びを感じた夜、家へ帰ってきて床についた私は、必ず翌朝、死体になって母に発見されるだろうと思った。私が死ななければ相手の女が死ぬだろうと思った。喜びはつかの間のあとに悲しみがのこると思っていた。その悲しみも、しかも時がくればおわってしまう。おわらぬものは一つとしてない。してみればランボオがみつけた永遠とは何んだろう。 「希望とは過去にしかない」とはバルザックの言葉だが、なんて恐ろしい言葉だろう。いみじくもこれはすべておわる世界を告げている。 まさしく希望とは過去のものである。今ここにかつて美しかった女がいるとする。その女が自分の美しかった頃のアルバムを眺めている。 「私はこんなにも美しかった。月さえ恥じて雲に身をかくしたものだ」 その頃、その女は希望でいっぱいであった。今は昔の美しさのあとがあるだけで、どこにも希望はない。 希望は三十年前にあった。その過去の希望はどこへいったのか。 女は二度死ぬという。一度目は美貌の死であり、二度目は肉体の死である。 「花の命は短くて」とは林芙美子の言葉だが、これは美貌の死を言っている。美貌の死とともに女は一切の希望を失う。希望とは過去の出来事である。 女だけがそうではない。男にとって同じこと、希望とは過去のものである。 大人になるということは希望を一つ一つしめ殺すようなものである。子供の頃の私の周囲にはあまたの希望があった。そのいくつかはかなえられ、その多くは時の中で死んでいった。かりに映画のフイルムのように、私の今までの人生を逆回転し、少年の頃でストップしたら、その少年は今の私に失望してこういうだろう。 「お前が僕なのか?ああ、なんていやな僕であることよ!僕がのぞんだ大人とはそんな大人ではなかった。お前は僕ののぞんでいるようにではなく、なりたくないと恐れていたような大人になった。僕は恥ずかしいよ。悲しいよ。早く消えてくれ」 私はあわててフイルムを逆回転するだろう。 少年の私は、おわらぬ世界を夢みていた。永遠を求めていた。いたるところに永遠がみつかり、おわらぬ世界があった。しかし、大人になった私が、手にいれたものは、すべておわりのあるものばかりであり「希望とは過去にしかない」という思想である。 それにしても、どこかに、おわらぬ世界はないだろうか。 (月刊はこだて No.90 1970年11月) |