いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 父を見送る 1

 父にマンションの片付けが終わり、大事なものは元町に借りた家に運び終わったことなどを報告したが、特に父からの話もなく終ってしまった。私自身も後ろめたい気持があったので、マンションの話は早くきりあげたかった。五日間も函館にいたのに、湯の川にいる時間が長く、結局ホスピスに顔を出したのは、一日のうちの一、二時間程度で父のことはお願いしていたヘルパーさんに任せっきりだった。
 本当の親子なのに、時々父とどう向き合っていいものか、わからなくなるときがあった。十八歳で函館を離れ、もう三十年近く父とは暮らしていなかった。母が学校を退職してからは、父の生活の全てを母がみてきたわけだから、私は父が望むことも、父が気持穏やかになれる方法も理解できなかった。
 母だったら、死を目の前にしている父とどんな時間を送ったのだろうか。小説の題材にしていた内容などを懐かしく思い出しながら話すこともできる。昔、母が国語の教師をしていたころ、指導書の内容がおかしいと父が言って、母と論じ合っていたときもあった。そのときのように、熱く二人が文学について語ることもできよう。ときには、私が子どもだったころの話や、孫の話をして笑うこともあるかもしれない。母が優しく父の手をさすり、父がゆっくり眠りにつくこともできただろう。しかし、私にはどれもうまくできないのだ。父にやらなくてもいいと言われ、傍にいるだけでいいと言われていたのに、洗濯をしたり、足りないものを見つけては近くのスーパーに買い物に行ったりしていたのだ。意識的に父と二人だけになる時間を避けていたのかもしれなかった。

 父は私が小学校の高学年から高校に入るころまで、ノイローゼで苦しんでいた。優しく繊細な人だったが、心が病んでいた父は私には怖く感じたのだ。今まで普通にしていた父が、突然、嵐がやってきたように形相が変り、傍にあった物を投げつけることがあった。私は父の気持が静まるのを、おろおろしながら待っていた。暴れたあとの父は、今度は何かに怯え急におとなしくになって、部屋から出てこなくなることもあった。
 今思えば、小説が書けなくて苦しんでいた時期だったのかもしれない。父の父親、すなわち私の祖父は私が二十二歳のときに肺癌で亡くなったが、何度も事業で失敗し、借金を抱えていた。そんな祖父の問題で父が人一倍悩んでいた時期でもあった。いずれにせよ、父が明るくなったのは、私が結婚したころからで、孫ができるとさらに別人のような一面を私に見せてくれた。
 子どものころいつも父に気を遣い、父の機嫌をそこねないようにしてきた私は、三十歳近くになってから、父に何でも話せるようになったし、父と笑いあえるようになった。しかし、それは母という大きな存在があったから、私は安心して父に接することができたのかもしれない。
 母が亡くなってしまった今だからこそ、私がもっと父に対してきめ細かな気持で接してあげなければならなかったが、私には札幌でやらなければならないことがたくさんあった。
 月末近くなると、経理の仕事をしている私は忙しくなる。長い間札幌の家を留守すると、気になることもいろいろあった。長男は大学生で札幌を離れ下宿生活だが、次男は中学三年生で高校受験を控えていた。この時期、進路を決める学力試験が二週間に一度の割合であり、先生との三者面談も予定されていた。「家のことは何も心配しなくていいよ」と、夫は言ってくれるが、しばらく家をあけると、洗濯物もたまっているし、掃除機をかけている様子もなかった。そんな些細なことも、このころの私には落ち込む原因のひとつになっていた。私は完全主義者ではないが、ある程度自分が決めたことは、どれもきちんとやっておきたかったのだ。

 マンションの明け渡しを済ませて、一段落したと思っていたころ、父の点滴の針が血管にだんだんうまく入らなくなってきていた。もともと、血管が細く見えにくいため、入院するたびに苦労していたのだ。父の両腕は紫色に変化して痛々しかった。ホスピスのF先生から鎖骨のあたりからカテーテルで栄養点滴を入れた方がいいと言われ、私もそれが父のためになると思い納得した。しかし、カテーテルを入れるということは簡単であっても局部麻酔で外科的手術をともなうために、ホスピスでは行えず二泊三日の予定で別な病院に転院することになった。日程は九月二十八日から三十日に急遽決まったのだ。私にとって一番忙しい時期だったので、ヘルパーさんとIさんにお願いし、転院の日は父に付き添ってもらうことにした。私はカテーテルの手術が行われる二十九日に日帰りで父のところに行くことにした。ところが、転院先の病室はホスピスと全く違う環境で個室ではなく、六人部屋だった。私の頭の中で六人部屋ということは、全く考えてもいなかったので、病室のことまで確認しなかった。突然の環境の変化が父の精神状態を悪化させてしまった。夜、付き添ってくれたIさんから電話をもらい父が興奮して、検査も受けられず大変な一日だったことを聞かされた。私は不安になった。私の頭のなかによぎったことは、昔父がノイローゼだったとき、「これから死ぬ」と学校にいた母に電話をして、大変心配させたことを思い出した。あんなふうになったらどうしようと、急に心細くなってしまった。次の日、函館にいくことになっていた私は憂鬱な気持を隠せなかった。もう父には面倒な検査など必要ないのだ。カテーテルの手術だけをしてもらうようにお願いすることにした。
 (つづく)




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