いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 父を見送る 3

 人が年齢通りに順番に死ねないことは、不幸だと思った。母は「片足のあなたを一人残して死ねない」と口癖のように言っていた。そして、祖母を見送り、父を見送って、最後に自分が全てを片付けてから死ぬのだと、私に話していたのに全くその逆になってしまった。年金のない祖母が最後に残ることは、父にとって最大の悩みであり、悲しみだった。
 しばらくして、父も落ち着きいつものように入浴の時間になり、三階の浴室に移動した。この一ヶ月、湯の川のマンションのこと、カテーテルの手術、そして祖母との対面といろんなことがありすぎて、私の感覚にも異常が起きていた。仕事に集中できなかったり、大事なことを忘れたり、列車のなかで今自分が函館に向かっているのか、札幌の我が家に帰ろうとしているのか、一瞬判らなくなることもあった。
 父の着替えを畳みながら、病室で父の戻りを待っていたが、いつもよりも遅く感じられた。この日、私は日帰りの予定だったので、夕方四時四十五分の列車で札幌に戻ることになっていた。三階に父の様子を見にいくと、まもなくして頭も身体もきれいに洗ってもらった父がタオルにくるまれ、移動寝台で出てきた。二人の看護師さんに髪を梳かしてもらい、着替えをしてもらっている父を横でじっとみていると、祖母に会ったあとの興奮した様子はもう感じられなかった。時計を見る。すでに四時をまわっていた。私は看護師さんに父のことを頼んで、函館駅に向かうことにした。
 「お父さん、来週また来るからね。時間ないから、もう行くから」と言っても父は反応しなかった。いつもなら、必ず「気をつけて帰れ、タクシーに乗っていきなさい」とか言ってくれるのに、今日は何も話さなかった。看護師さんが「木下さん、絵里子さん帰りますよ。手をふってあげてください……」と言っても最後まで父は私の方に顔を向けなかった。祖母が病室を出るときと同じだった。
 これが生きている父との最後の別れだった。
 担当の看護師さんから電話をいただき、父が二十四日から全く食事も受け付けなくなったことを知らされ、おしっこの出も悪くなっているようだった。二十八日にまた函館に行くことにして、私は月末の仕事を急いで片付けていた。しかし、ホスピスのF先生から電話をいただいた二十六日にすぐ函館に行けば、父の最期を看取ってあげられたのかもしれなかった。私は「明日一番の列車で行きます」と伝えたが、二十七日をまわってすぐ午前二時、父は永遠の眠りについた。
 一週間前、父に「また来週くるからね」と言ったが、その日は父の葬儀の日となってしまった。あの日、父はもう自分の死を悟っていたのかもしれない。祖母にも、私にも別れを告げていたのだろうか。列車に乗り遅れそうだといって、バタバタと帰ろうとしていた娘に、本当は「帰るな」と言いたかったのかもしれない。母のときと同じように、私にはまた後悔だけが残ってしまった。

 父の葬儀で初めて喪主を務めた。
 葬儀に関して父の遺言は何もなかったが、二年前に父が母の葬儀で喪主を務めていたので、そのやり方が父の望む考え方だと理解していた。本当なら、父の遺体の傍でしばらく何もしないでいたいと思ったが、悲しみに浸っている時間は全くなかった。何をするにも全て私が決めなければならなかった。さいわい、葬儀屋さんは、母のときと同じ方が担当してくださり、親身に相談にのってくださった。
 実は葬儀屋さんのFさんは、以前父が書いた小説『湯灌師』を本屋さんで見つけ、タイトルにひかれ読んで下さっていた。そのあと、母の葬儀のとき、偶然にも担当して父が『湯灌師』の作者であることを知ったのだった。母を亡くし、ひとりでマンションに暮らす父を気遣って、Fさんは時々顔を出してくださっていたようだ。たぶんその時父は、自分にもしものことがあったときは娘の力になって欲しいと、頼んでいたのだろう。
 長い間函館を離れていた私にとって、父の交友関係や仕事関係はほとんどわからなかった。タウン誌の元スタッフであるIさんとKさんに教えてもらいながら、なんとか葬儀を終えることができた。
 父の骨は母の待つ墓に、四十九日を待たずに納めた。ホスピスに入院しているとき、父が「往き方がわからないのだ、お母さんがちゃんと迎えにきてくれないから」と言っていた時期があった。父は今、道を迷わずに母の元に無事着いたはずだ。痛みからも解放されて、穏やかな気持にやっとなれただろう。父の痛みは癌の痛みだけではなかった。ふと、母がずっと前にもらした言葉を思い出した。初めての前立腺癌の治療で腕に点滴の針をさすとき、父の血管が見えずらかったため看護師さんが何回も何回も針でさぐっているうちに、父の腕は腫れあがり血だらけになったのだ。母は看護師さんの腕をつかんで、「やめてください。この人をこんな痛みで苦しめるのは……」と言った。そして、あとで母が私に、「お父さんは二歳のときに右膝に結核菌がはいって、ころげまわるくらい病んだのよ。でも、昔は抗生物質もなかったし、体力もないからといって七歳まで待って足を切断することになったの。幼いころ何回も何回も痛みで泣いたそうよ。それなのに、また前立腺癌になって痛い思いをして……。何回、お父さんを苦しめるといいの」と話しながら、涙ぐんでいたのだ。
 父はやっと、二歳からの痛みから開放され、同志であった母の元に旅立ったのだ。しかしそれは、もう私には戻る場所がなくなったことを意味していた。
 (つづく)




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