娘のつぶやき |
トップページ ◆『天使の微笑み』
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某新聞社の記者Tさんと話していると父が永年発行していたタウン誌「街」のことが話題になった。彼女が函館に赴任中に、ちょうどタウン誌を43年間も続けてきた父が休刊を決めた。休刊の理由は高齢になったからだったが実際は父の癌は前立腺から骨に転移し、痛み止めをのむ毎日だった。体力的にも限界だったと思う。父が43年間に発行した数は510冊、資金繰りが大変なときも、ノイローゼになって入退院を繰り返し、薬をのみ続けていたときも、癌になったときも休まず発行し続けてきた。ひとりの同じ編集者が43年間続けてきたタウン誌としては国内最長寿だと言われた。父が発行してきたタウン誌が休刊するとき、新聞で13回に渡って特集が組まれ、彼女がその記事を担当した。記事を書くために500冊すべてに目を通したと聞いた。 父は私が函館を出て札幌に住むようになってからタウン誌を毎月送ってきてくれた。しかし、さらっと目を通すだけで隅々読んだ記憶がなかった。若いころ、父がどんな想いでこれを発行しているか考えてもいなかった私は引越しのときに廃品回収に出してしまったのだ。まったく親不孝な娘だ。彼女が憲法研究家で東大の教授だった奥平康弘氏と父の対談がタウン誌に載っていたときの話をしてきたが私はそんな特集が組まれていたことすら知らなかった。父は「憲法九条を守る会」などで活動していて、これに関しての講演も数多くやっていたようだ。奥平先生とどんなやり取りがあったのか知りたくて、早速函館のYさんに電話してみた。 Yさんは父がタウン誌をやっているときのスタッフで、現在も復刊した「街」を父の遺志を継いでくれた人たちと一緒に年4回だが発行している。何日かして連絡があった。2000年7月号でその対談が特集されていたとのことで、郵便で送ってくれた。付箋が二箇所についていた。ひとつは奥平先生との対談、もうひとつは父が「私の雑記帳」というなかで私の息子のことを書いたものだった。「元町で会った祐平」というタイトルで中学校の修学旅行で函館に行った孫に会いたくて、偶然をよそおって昼食をとることになっている食堂に行く父の姿を書いた随筆だった。こんなことがあったな……と懐かしく文章を読んでいるうちに孫と会って一言二言交わし、お小遣いを渡したたった5分間だが、義足の父が何度も行ったり来たりして待っていた気持が痛いほど伝わってきて涙してしまった。八年経って、中学生だった長男も今は社会人になり、私は祐平にこの文章を見せた。読み終えた息子は「おじいちゃんが書くと、ちょっとの出来事が4ページにもなるんだ…」と言った。 あらためて私もどんな雑誌よりも父が発行し続けてきたタウン誌のほうが価値あるもだと知り、ちゃんと読まなかったことや処分してしまったことを後悔している。 最終号を発行した父は、「街」でつながった執筆者たちが毎年集まり同窓会を開きたいと言っていたが、叶うことなく七ヶ月後にこの世を去った。書くことが生きがいで、いつも前向きだった父。タウン誌をみればその街がわかる、と言っていた父は最後まで手を抜くことなく自分の情熱を注いできたと思う。 ホームページを開設して一年がたった。毎回、父のどの文章を載せようか、タウン誌「街」や新聞のコラムや本などをあちこち引っ繰り返しさがしている。この作業が今の私にはとても心地いい時間になってきた。次は父のどんな文章に出合えるか、ワクワクしている。510冊すべてのタウン誌に目を通すのは無理だろうが、時間をかけてていねいに読んでいくつもりでいる。 |