娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


立待岬

 「立待岬」とは北海道新聞道南版のコラムのタイトルである。父はこのコーナーができたときから執筆しているようで、その数は膨大である。母が生きている時は毎回切り抜き、掲載年月日を丁寧にかきしるしてあった。しかし、母が亡くなったあとは切り抜きの数もグンと減り、あったとしても掲載日がわからなくなってしまった。
 道新の方に相談すると、2000年2月1日からの物をコピーしてくれたが、私が読んだことのない記事ばかりだった。
 2003年6月28日、これは母が亡くなって六日目だが、たぶん母が亡くなる前に書いたコラムなのだろう。父自身の放射線治療のことが書いてあった。それから暫く、掲載がなく8月7日に「道」というコラムが載っていた。ここで母の死のことを触れていた。一ヶ月以上父はどんな生活をしていたのだろうか……。定期的に載せていたコラムの空白の時間が今頃、私に悲しく襲いかかってきた。母を亡くした時、もちろん涙が止まらず、私も淋しかったが札幌に戻ると夫も二人の息子もいたし、仕事もあって忙しく動きまわっていた。しかし、父は母と二人で暮らした湯の川のマンションに母の姿はなく、遺影と骨箱があるだけだった。日中はいろんな人が訪ねてくれるが夜はたった一人で、闇の世界は父を苦しめたはずだ。「道」のなかで父は「おまえはどこから来て、ぼくと出会い、また何処へいくのか、と思った。……おまえを知り得たのは愛の道であり、おまえを死によって奪われたあとは苦悩の道である」と書き、世の中にいろんな道があることを書いていた。道は目に見えないし、すぐに消えてしまうからこそ積極的に道について考えなければならないのだろう。父が残してくれた言葉は今の私に痛いほど伝わってくる。コラムのコピーは、2005年2月26日「いつか来た道」で終わっていた。たぶん、これが最後の掲載だったのだろう。記事の最後に父の肩書きが記されていて、いつもは(作家・タウン誌「街」発行人)となっていたが最後の記事は(作家)だけだった。父にとって最後のタウン誌510号の発行を終え、父の四十三年間の仕事が終わったのも同月だった。昔の友人何人かに自分が描いたパステル画も贈っていた。父はひとつひとつ、母のところにいく道を整えていたのかもしれない。タウン誌「街」発行人の文字が消えたコラムを私はじっと眺め、書き物をしていたときの父の背中を思い出していた。
 父のコラムを整理しながら、私は夫婦の道、子どもとの道、そして平和への道を考えていこうと思う。父が一番大切にしてきた道は心の道だったようだ。
(タウン誌「街」2009年夏号 No.523)



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