娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


父の昭和史

 七月末、函館に墓参りに行ってきた。はじめ冷夏だといわれていたのに、その予想に反して函館も暑かった。湿度が高く、昔のようなカラッとした北海道らしい夏でなくなってしまった。函館に行った日は、父の命日の前日だったので、タウン誌「街」のYさんとKさんと一緒にお参りをしてきた。
 いつも、思うことだが父と母の墓参りをすると、元気になって気持が明るくなるのだった。実家がなくなってしまうと、今私がホッとできる場所は、港を見下ろせる両親の墓と元町にあるタウン誌「街」の事務所なのだ。父の本が並び、父のパステル画が飾られたこの場所は、父の姿がなくても父を感じる空間なのだ。今回、Yさんに言われて、まだ父の残っていた私物を片付け札幌に持ってきた。それは、ホスピスに入院中の闘病メモ(小さなノート)3冊とはがきのファイル。闘病メモは父が書いたものではなく、父に毎日付き添っていたヘルパーのYさんと「街」のKさんがほとんど書いてくれた父の様子だった。私が週末など付き添ったときは、同じようにメモした。看護師さんからの指示や、父の要望や、その日の体調など伝言の意味で書いたメモだったが、今となっては私には貴重なノートとなった。本当なら、もっと早くに札幌に持ってこなくてはならなかったが、辛くて父が亡くなる前の一週間の様子を見ることができなかったのだ。父は声にならないかぼそい声で、「絵里子に会いたい」と言ったことをヘルパーのYさんが書きとめていた。苦しく、せつない時間を私はもう一度思い出していた。
 闘病メモのほかに父が大事にしていたファイルもあった。それは、埴谷雄高さん、串田孫一さん、ドナルド・キーンさんなどから届いたはがきや手紙だった。湯の川のマンションを処分したとき全部捨ててしまったと思っていたので、事務所に保管していた分だけでも残っていて良かったと、少し安心した。父が亡くなって五年になろうとしているが、まだ整理されていないものがありそうだった。秋にはもう一度、ゆっくり整理して、昔のタウン誌で私が持っていないものなどを札幌の我が家に運んでこようと思っている。
 とりあえず、1989年(平成4年)4月号から1990年(平成5年)9月号までの間で、手元になかった数冊をYさんに用意してもらった。父が「私の昭和史」と題し、17回に渡って連載していたので、ぜひ読んでおこうと思った。本来なら、父と母が生きているときに読むべきだったが、悔やんでも仕方ない。私はいつも大事な事を後まわししていたのだから。
 「私の昭和史」。このタイトルを以前見たときに、私のなかで勝手に『少年の日に』と全く同じものだと決め付けていたところもあった。たしかに同じものには違いないが、タウン誌に連載しているときの文章には、父の日々の時間の変化と母との暮らしを感じる会話なども連載のなかで書かれていた。たまたま、この連載がいつまで続いていたのか調べるために、タウン誌を出してならべていた時に、最終回(1990年9月号)を先に読んでしまった。それは1990年8月8日に書いた文章で孫に送る誕生日のカードを母と二人で書きながら、平和について語っていた。まだ足腰が、人の手をわずらわさなくても大丈夫なうちに、炎暑の広島へ行ってみるべきだと思っていた様子が書かれていた。「憲法9条を守る会」でずっと活動し、そして昭和という時代を片足という身体障害者として生きてきた父にとって、広島と長崎の原爆投下のちょうど間に誕生日を迎えた孫の平和な将来を母と二人で語っているシーンで終っていた。二十年前の八月に書かれた文章だった。
 17回分そろった「私の昭和史」。これを読み終えたとき、きっと私はまた両親に対して新たな発見をし、私が自分自身を見つめなおすいい時間を父があててくれたと感謝するはずだ。
 墓参りのために函館に足をはこぶたびに、私は見えない力をもらってくるような気がするのだった。



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