娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


父は物書き……

 父の職業を訊かれて、「作家」と答えたことはない、と思う。いつもタウン誌の編集長か、物書きと答えたはずだ。私の中で作家とはベストセラーを出して売れている人、誰もが知っている人が作家というイメージがあったからだろう。しかし、物書きを辞書で引くと、「文書を書く人、作家、評論家」と書いているが、作家よりも物書きの方が控えめな感じがしていた。私の勝手な解釈である。これは私が函館で暮らしていた高校生までの話である。
 大学生になってからも、人に父の職業のことは話さなかった。札幌で暮らしていた私のまわりでは、名前を出しても知らない人が多いと思っていた。誰かに父は小説を書いている話をすると、「何と言う名前?」と訊かれ、「木下順一」と答えると、決まってほとんどの人が「えー」と言って驚くのだ。その次の言葉はだいたい想像がつくだろう。「教科書にあったよ、つるの話。有名人じゃない」となるわけだ。私はそのたびに説明して、あれは「木下順二」で、私の父は「順一」だと。
 父は晩年、道新文学賞を頂いたり、中央で出版されている雑誌に掲載されることが増えたり、単行本をだしたりした。父の事を知っているという人に出会うことも増えてきた。
 函館では、四十三年間もタウン誌の発行をしていたし、道新の道南版には毎週のようにコラムを書いていたので、父の事を知っている人は多かったかもしれないが、十八歳の時から一緒に暮らしていなかった私は、三十年近くの父の道程は知らなかった。
 そのことに気づいたのは、父の葬儀の時だった。私の知らないたくさんの方が葬儀に参列してくれて、父との係わりを話してくださった。私が知らない、想像もつかなかった父の姿を知らされ、父と文学の話や人生のことをたくさん話しておくべきだったと痛感した。
 最近タウン誌「街」の編集スタッフのYさんが、私に薦めてくれた本があって、須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』を読んでみた。この中に、須賀さんが本を読むということについて、亡くなった父親にながい手紙を書いてみたい、そして父親から返事が欲しいと書いてある文章を見つけて、私も同じ気持になり目頭が熱くなった。
 札幌で暮らすようになってから、父からたくさんの手紙をもらった。ひとり娘を案じた、父からの一方的な手紙で私の方から父に返事を書くことはなかった。須賀さんは文学少女だったから、本を読むことについて父親に話したかったようだが、私の場合は本も読まないし、文学に興味もなかったので手紙の書きようがなかった。返事はいつも電話で簡単に済ませてしまった。しかし、須賀さんの本を読みながら、本当は私も父にながい手紙を書きたかったと最近思えてきた。
 子どもの頃、電車に乗り込む父を見かけ、不自由な義足の足を引きずる姿を見て傍にいた友人に父だと言えなかった事や、ノイローゼで苦しんでいる父に対して、本当はあなたのせいで家の中が暗くなったと恨んでいた事、大学生のときは、北海道新聞で父の文章を目にすることがあったのに、タイトルだけ見て内容を読んだこともなかった……など、娘として詫びなければならないたくさんの事を、私は父にながい手紙にして書きたくなったのである。
 父に死なれて、その存在の大きさを今頃しみじみと感じている。そして、須賀さんのように、私も物書きだった父からの返事を待っているのかもしれない。



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