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いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 父を見送る 2

 二十九日、朝七時発のいつもの列車で函館に行き、タクシーでまっすぐ病院に向かった。十時にはカテーテルの手術が始まると聞いていたのに父はまだ病室のベッドにいた。Iさんとホスピスの看護師さんが心配して顔をだしてくれて、父の傍に付いていてくれた。父は私の顔を見るなり、「帰る」と言って私を困らせた。説得してカテーテルの手術をやっと行えるようになったが、まだ興奮状態が続いていたため、私も手術着に着替えて父の手術に立ち会うことになった。局部麻酔なので父と会話をすることができた。少しでも気持が穏やかになるように、食べ物の話をしたり、今朝乗ってきた列車の中の様子など私は必要以上に父に話しかけた。麻酔が効きにくかったのか、それとも父が動いたせいなのか、簡単な手術だといわれたがとても長く感じられた。父のせいで時間がなくなり、手術の予定がくるってしまったことは申し訳ないと思ったが、父にわかるように説明し、麻酔がちゃんと効いているのかどうかの確認が、きちんとされていなかったように私には感じられた。父が何度も体を動かしたのは、もしかして麻酔が効いていなくて痛かったのかもしれない。父の苦しむ顔を見ながら、この時の私は父の手を力強く握りしめることしかできなかった。
 父は昔、私に「自分の幼児期は肉体の苦痛から始まった。痛みが私の存在を私に知らしめている」と話してくれた。父の右膝は結核菌に冒され治る見込みはなかった。子供のころ、父は右膝の痛みに何度となく襲われ泣いたそうだ。七歳で右足を大腿部から切断したあとも、ないはずの足が病み父を苦しめた。その症状はホスピスに入院しているときにも何度かあった。これを「幻影肢」と言うらしい。痛みに苦しむ父を目の前にして、今まで聞いてきた父の言葉が私に重くのしかかった。手術室を出るとき、「アイスクリームが食べたい」と私に言った。
 少しでも早くホスピスに戻してあげたいと思い、手術のあと担当の先生に訊くと消毒だけの問題なので構わないと言われたので、もう一泊の予定だったが、夕方、民間の救急車に父を乗せてホスピスに戻った。父は時折、不安な顔をして自分がどこに連れていかれるのか……と思っていたようだ。私は母親が子どもをさとすように、父にホスピスに戻ることを告げたが、この二日間で父の心も身体もダメージをうけたのは間違いなかった。
 カテーテルのおかげで、見えない血管を捜し、やっとの思いで点滴の針をさすことはなくなったが、父は日一日と死に向かっていたのだった。

 十月に入り、私もたまっている仕事を片付けなくてはならなかったので、中旬まで父の見舞いには行けなかった。十四日、函館に行ったとき、普段毎日ホスピスに見舞いに行ってくれていたIさんとKさんに、祖母に会わせたほうがいいのではないかと、言われた。私も祖母のことはずっと気になっていた。
 父は四月にK病院に入院する前までは、頻繁に老健施設に顔を出して祖母に会っていた。このまま、会わせないで終らせるわけにもいかないだろう。しかし、私には今ひとつ父の気持がわからなかった。もう、声もはっきり出なくなり、どれだけ祖母と父が向き合うことができるのか……。それよりも、今まで私が父の代わりに祖母のところに訪ねなかった理由は、私の母のことがあったからだった。母は膀胱癌で亡くなったが、検査入院する四ヶ月前から「疲れた」とよく言っていたが、祖母が急に足腰が弱くなり、ひとりで一階にある食堂まで食事をしにいけなくなったため、今までいた施設を出なくてはならなくなった。しかし、急なことだったので次にいく当てもなく、祖母の施設捜しや引越しで気苦労が耐えなかった。母はそんな忙しさと父の世話にあけくれ、自分の体調が悪くても無理していたことは事実だった。母が亡くなったあと、祖母は病院での治療もうまくいき、再び元気になった。それは喜ばなければならないことだが、私には母が祖母の犠牲になったように思えてしっくりしなかったのだ。

 十月二十日、桔梗町の老健施設にいる祖母をIさんが車で送迎してくれることになった。私はこの日も朝七時の列車で函館に行くことにして、昼、父とふたりで祖母がくるのを病室で待っていた。父は時折、蚊の鳴くような小さく弱々しい声で、「だれが母さんの面倒を看てくれるのだろうか」と何度も何度も言っていたのだ。
 祖母が初めて父の入院先であるホスピスにやってきた。九十六歳だが頭はしっかりしている。久しぶりに見た祖母は母の葬儀の時より小さくなっていたが、きちんと着物を着て帯もしめ、薄く化粧もしていた。父の痩せ細った手を握り、「順ちゃん、私が代わりになってあげればいいのに……本当に済まないね」と言って泣くばかりだった。父は無言だった。身体を祖母の方に向けようともせず、天井のただ一点を静かに見つめていたのだ。
 どれだけ時間が経ったかわからない。重苦しい空気が流れ、その日は十月も中旬だというのに少し暑く感じた。しばらくして、Iさんが「おかあさん、もう帰らなくてはいけない時間ですよ」と言って祖母を迎えに来てくれた。私はホッとした。祖母はもう少し父の傍にいたい様子だったが、「順ちゃん、また来るからね」と言って、病室をあとにした。父はとうとう祖母の前では目をつぶったままで、一言も口を開かなかった。廊下から祖母のスリッパをひきずる音が消えた途端、父は大声を出して泣いたのだ。身体を震わせ、今まで我慢していた全ての感情が爆発したのだろう。私はただ父の手を握ることしかできなかった。
 (つづく)




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