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娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


ホスピスに決めた日

 二年前の五月、函館のI先生から電話があった。父の今後の治療の件で話をしたいので病院に来て欲しい、という内容だった。
 父は十年程前に前立腺癌と診断され、入退院を繰り返していた。手術が難しい場所に腫瘍があり、また父は七歳の時、結核性関節炎で右足を切断しているなどの理由から手術はせず、ホルモン療法で癌をおさえてきた。しかし、この二、三年その治療の効果はなく、母が膀胱癌で放射線治療をした病院に移り、父も放射線をうけていた。今回は、その病院に三回目の入院だった。癌は前立腺から骨に転移し、痛みが全身にまわっていた。I先生の口調から、私は父の容態がかなり悪いという事を悟った。しかし、一カ月前に私も子宮筋腫の手術をし退院したばかりで、体調は万全ではない。I先生に、その事を話し、なるべく早く函館に行くことを告げ、電話をきった。
 三月、私が手術で入院する前、父は何度も電話をくれた。私の事を気遣ってくれ、一家の主婦が二週間も入院する事を私の夫に対して、済まないと思ったのか、「後でちゃんと父さんから電話を入れておくから心配するな」と話していた。次の日、父から宅配便が届いた。私の入院中、主人と息子たちが困らないように食糧が詰められていた。私は胸がいっぱいになった。父は母が癌で亡くなってから、母がしてきた事をちゃんと見ていたかのように、母親だったら娘のためにこんな事をするだろう、と考えていたのかもしれない。
 父はモルヒネの錠剤を飲みながら、私の所に列車に乗って見舞いにきてくれた。「大変だから、来なくてもいい 」と言っても、私の様子も見たいし、お世話になった人に挨拶もしたいと言って来てしまった。見舞いの後、大学の春休みで帰省していた長男とホテルで食事をし、孫との楽しいひとときを過ごして帰って行った。これが父にとって最後の札幌となった。激痛に襲われ、二週間後、父は入院した。
 五月の中旬、私は列車で函館に行った。 四人部屋の窓側のベッドに父は小さくなって横たわっていた。その姿を見て、私は声を失った。今までの父の様子とは全く違い、副作用で吐き気が続き、食事もとれていなかった。I先生は、骨が全て癌でおかされ、崩れていき、頭にも転移しているため、今後の治療は期待できないと伝えてきた。今まで父にとって効果的だった放射線も今回は違った。
 何回か函館に足を運び、I先生と話をしているうちに、私は父をホスピスに移す事を決心した。一日中、点滴をし、眠り続けている姿はあまりにも悲しかった。以前、母を膀胱癌で亡くしたとき、私はホスピスで最期を送らせたいと思い、いろいろ調べたが、その病院はまだ建設中だった。今、そのホスピスは開院して一年がたっていた。実は、この病院の院長先生の事は新聞の記事で知り、ずっと興味をもっていた。その人らしい最期、という言葉が頭からはなれず、父に話したことがあった。父も私と同じように母をホスピスに入れてあげたかった、と思っていた。
   父は函館で四十三年間、タウン誌の編集と発行をしてきた。休刊を決めた最後の510号で父は自らこのホスピスを訪ね、院長先生の取材をしている。取材を終えたあと、笑いながら「僕に何かあったら、その時はよろしく…」と話したそうだ。その父が取材したホスピスに娘が入院させようとしている事を全く知らない。
 六月、転院が決まった日、私は父に、どのように話すか迷っていた。肝心なところは全て、I先生にお願いしてしまった。今、思えば私は何を迷っていたのだろうか。ホスピスは死を待つだけの所ではない。精神的な苦痛を取り除き、父が父らしく入院生活を送れる場所である。父が望んでいた、人間としての尊厳を保つ事ができる場所なのに私は動揺していた。
 ホスピスに移ってから、痛みのコントロールがうまくいき、食事もとれるようになり、車椅子で外出する事もできた。個室の白木の壁には、母の写真と父が描いたパステル画を飾った。このまま、回復する錯覚をおぼえたが、それは叶わなかった。
 四カ月後、父は旅立った。「片足のあなたを一人、置いて逝けない」といつも言っていた母のもとへ父も逝ってしまった。ホスピスでの四カ月間は、私が父を真正面から見ることができた大切な時間だった。
 ホスピスに決めた日、函館は気持ちのいい青空で、父が好きだった函館山がくっきりと見えていた。
     (さっぽろ市民文芸 第24号/2007年10月)

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