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娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


長万部のもり蕎麦

 昨日、注文していた同人誌「黄色い潜水艦」が届いた。今年2月に亡くなった川崎彰彦さんの追悼号だったので、どうしても読んでみたいと思った。私自身、川崎彰彦さんという作家のことは全く知らなかったが、昨年12月に真駒内石山堂のSさんから、川崎さんの文章が、父が発行していたタウン誌に載っていないだろうか?という事から始まった話であった。調べてみると川崎さんが北海道新聞社を退社し大阪に移り住んだ昭和42年ごろから、当時のタウン誌「月刊はこだて」に「私の函館地図」というタイトルで、川崎さんのエッセイが連載されていた。その他にもいくつかの文章が載っていた。これを見て、父と川崎さんとは交流があったことを初めて知った。
 父が亡くなってから、川崎彰彦さんという作家の存在を知り、昔のタウン誌をあちこち探しているときに、川崎さんの訃報を聞いたのだった。何も知らない私だが、父と同じ時代を生きた人がまた一人亡くなったのかと思うと妙に悲しかった。
 「黄色い潜水艦」をぱらぱらとめくってみると、最後のページに川崎さんの息子さんがお父様の思い出を書いた文章が載っていた。幼いころ、函館の金堀町に住んでいたようで、私が住んでいた時任町とはすぐ傍だった。私が通っていた小学校にはプールがなかったので、夏の間、体育の授業のときに金堀小学校までプールを借りに行っていた。もしかすると、川崎さんの息子さんとどこかですれ違っていたかもしれないなんて、小学校時代を思い出していた。次に懐かしい私の記憶のひとつが息子さんと同じ長万部のもり蕎麦だとわかり、この話にも興味をもった。長万部というと、駅弁のかにめしが有名だが合田のもり蕎麦も負けてはいなかった。駅弁と同じように折り詰めされていて、たれの横にねぎやわさびの薬味といっしょにうずらの卵が添えられていた。子どものころ、私はこのもり蕎麦を食べて初めてうずらの卵を知った。デザートになるのか、折り詰めの隅にシロップづけのみかんが2、3個付いていた。川崎さんが札幌に出張するたびに、おみやげにこのもり蕎麦を買ってきてくれたそうだ。今もその当時のままですよ、と息子さんにお伝えしたいと思いながら読んでいた。
 私の父もこのもり蕎麦は大好きで、私が札幌から函館の実家に帰るときに父におみやげとして持って帰ったことがある。最後の放射線治療のために入院していた父は電話で食欲がなく何も食べたくない、と話していたのでもり蕎麦を買って病院に行った。父は「旨いなー」と言って、半分くらい食べてくれた。平成17年5月、父が食べた最後の長万部のもり蕎麦だった。
 この同人誌を手にしたおかげで、小学校時代のことや病室でもり蕎麦を食べていた父の穏やかだった顔を思い出し私の気持も明るくなった。
 「黄色い潜水艦」を持って来月は父と母の墓参りに行こう。もり蕎麦も久しぶりに買っていくことにした。



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