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いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 終の住処 3

 父の書斎は、本とパステル画の道具が大半をしめていた。父は私に「欲しいものがあったら札幌に持っていきなさい……」と言ったが、具体的にこの本などという言い方はしなかった。それは、娘の私が文学に全く興味をしめさず、本を読まないことをよく知っていたからだった。私にとって本はインテリアのひとつだった。札幌に持っていく本は、見栄えのする昭和文学全集や表紙が私の好きな水色で洒落たカバーのマルセルプルーストの全集などと決めダンボール箱に詰めた。一冊ずつ本を手に取り、いつこんなにたくさんの本を読んでいたのだろうと、父の生活をあらためて思い返していた。
 昔、時任町の家にいたころ、父の蔵書の重みで押入れの土台が抜けたことがあった。さっそく、母が大工さんを呼んで直してもらうと、「押入れは布団を入れるところだから、こんなにたくさんの本を並べたら壊れるのも当たり前だね」と言われた。大工さんは今まで以上の本棚が並んでもびくともしないように、作り変えてくれた。
 私が小学生のころ、毎週のように、今はもうなくなったが森文化堂という本屋さんから、本や定期購読していた雑誌が我が家に届けられていた。そのほかに父が買ってくる本と、父が編集発行していたタウン誌の在庫など、毎月本はどんどんと増えていくばかりだった。
 昔の時任町の家は縁側が広く、奥の座敷は廊下に囲まれていたが、いつしかこの廊下の片側にスチール製の本棚が並び、父の本はそこにも進出してきた。父の収入の大半は本代とタウン誌の経営のためにまわされ、中学校の教師を三十五年間してきた母が一家五人の生活を支えてきたのだった。母がいたから、私は札幌の大学に進学できたし、そのあとも自分のことだけ考えて札幌で就職、結婚し家庭を持つことができたと思っている。全て、母任せだった私にとって、父より先に母が亡くなるということは、誰もが予想しなかった出来事だった。

 クローゼットの扉を開けてみた。中には母の洋服がまだ掛けられていた。二年前、父が形見分けといって、かなりの物を母の姉妹や知り合いに送ったがまだ手元に残っているものがたくさんあった。たった一人になった父が淋しさを埋めるために、どうしても母の愛用品を傍に置いておきたかったのだろう。手紙や日記、母が毎日使っていた手帳やチラシの裏に書いたテレビの料理番組のメモなど、悲しいくらい母の匂いのするものが抽斗から出てきた。クローゼットの奥にビニール袋に入って丁寧に紐が掛けられた物があった。それは、今は使われていない父の義足だった。紐の結び方から、母が片付けたままだとわかった。七十五歳まで義足の生活だった父にとって、命の次に大切なものはこの義足だった。母はいつも義足を大切に扱っていた。私が子どものころ、石炭ストーブだった時、毎朝必ず母は父の義足をストーブの傍に置いて温めていた。右足を大腿部から切断していた父の足は細く、皮膚が柔らかく色白だった。その小さな足を革張りで包まれた筒状のところにはめ、肩からのベルトで右の義足を固定するのだった。冬になると革が冷たくなっているので、父の小さな足がびっくりしないように……といって、母がその部分を温めておくのだった。義足の上を私がまたいで通ったときは、母に大変叱られた。「お父さんの足の上をまたいではいけません」と言われたことを思い出した。もう、すっかり忘れていたことだった。使っていない義足でも、またいつ交換するかわからないので、母はきれいに金具などを磨き上げ大切にしまっていたのだ。
 静まりかえった部屋のなかで、私は初めて父が二年間耐えてきた孤独感と喪失感を味わっていた。私は母が死ぬとは思っていなかった。膀胱癌になっても、手術をすれば治ると思っていた。母に死なれて初めて母の存在の大きさと悲しみを知ったが、札幌に戻ると夫と二人の息子が待っていてくれた。しかし、父にとっては母しかなかったのだ。父にとって母は同志だった。この寒々とした空間で父は何を思って暮らしていたのだろうか。

 湯の川のマンションの片付けのための五日間は、あっという間に過ぎてしまった。父がタウン誌を発行していた時のスタッフのIさんとKさん、そして父の文章教室の生徒さんたちに手伝っていただき、無事荷物を運び出すことができた。ガランとなった部屋を見渡すと、これでよかったのかどうかわからず、私の行動は間違っていたかもしれないと思えてきた。
 父はマンションに支払う毎月の家賃や自分のホスピスの個室料、医療費、さらに一番気に病んでいたのは九十六歳になる母親にかかる施設の入所費用のことだった。祖母が受け取っていた年金は微々たるもので、あとでわかったのだが二ヶ月に一度二万円くらいが口座に入金されていた。そこから介護保険料などを支払うと祖母の小遣いにしかならなかった。父と亡くなった母が金銭的に全て面倒をみていた。母が亡くなって父一人の年金では、負担が大きかったのは事実で、父はいつも私がホスピスの支払いを十日に一度済ませてくると、「いくらかかった?」と訊いてきた。そのとき、はっきり金額を伝えていいものかどうか私にはわからず「大丈夫、心配ないよ」と言っていた。母が残した貯金をくずしていたのは確かだった。
 荷物を運ぶ引越し屋さんのトラックを見ながら、私はとうとう父が生きているのに、マンションを処分してしまったことの罪悪感を隠せなかった。
 (つづく)




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