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いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 終の住処 2

 五日間、父と母が暮らしていたマンションで、ふたりの荷物を私が片付けていることがふしぎでたまらなかった。十年前、父と母は永年暮らした時任町の一軒家からここに引っ越していた。母が私に「もう私たちは歳だから、いまさらマンションなんて買わないで、賃貸でいいところを探すことにしたの」と電話をかけてきた。父と3LDKの間取りで交通の便が良く、見晴らしが良く、静かなところなど、いろいろ条件をそろえて不動産屋さんをまわっていたようだった。ところが思うような物件がなかなか見つからない。何件もまわってやっと湯の川のマンションにたどりついた。
 不動産屋さんに案内されて母は居間のベランダに出て、目の前に見える函館山と海の香りがする部屋がすっかり気に入ったようだった。父もそれは同じだったが、間取りが2LDKのため予定していた荷物が入らなくなってしまった。荷物の大半は父の本と趣味で描いていたパステル画の道具と額だった。しかし、一日の長い時間、この部屋で過ごす母の気持を尊重して、一部屋少なくなってしまったが2LDKの502号室が父と母の終の住処となったのだ。
 このマンションの最大の魅力は一階にある住人専用の温泉だった。場所が湯の川だから納得できる話だ。せっかく温泉付きなのに最初の一年間は父も母も自分たちの部屋にある狭い風呂を利用していた。
 父は七歳のときに結核性関節炎のために右足を大腿部で切断し、義足の生活だった。「片足である」と言う理由から他の住人の方に迷惑をかけてはいけないと思ったのだろうか。父が温泉を利用しないのに、母だけ温泉に入るということもできなかったのだ。一年くらいして、管理人さんが父の義足に気づいて「清掃後の午後三時くらいだと、男湯はまだ誰も利用していないのでゆっくり入れますよ」と教えてくれたそうだ。さっそく、行ってみると誰もいなくて風呂は大きくいいお湯だった。当然、心配性の母は誰もいないのを確認して父の様子を男湯に見に行ったという。それからは、母も毎日女湯を利用することができるようになった。温泉にいくことで、父も母もマンションの人たちと交流することができたのだった。
 七年間、父と母は今まで経験したことがない利便性と快適な四季の生活を送ることができた。そして、何よりも一番母が気に入ったベランダからの景色を毎朝、毎夕楽しむことができた。雲の流れをじっと見ていると飽きないと、よく母が言っていた。父もここに移ってからは、趣味で描いていたパステル画に函館山が登場するようになっていた。「函館山残照」とタイトルが付いている画は、豊かな暖かい色彩のパステルの組み合わせで、きっと、カメラを構え写真を撮る母と二人で並んで同じ景色を見ていたのかもしれない。スケッチブックを広げた父は、ベランダで至福の時を味わっていたのだろう。

 函館の実家に行くことは私にとって息抜きであり、楽しみだった。息子たちが小学生のときは、夫の運転する車で夏休みは毎年のように足を運んでいた。父も母も元気だったし、特に娘しか知らない父にとって、男の子の孫は格別なものだった。子どものように孫と一緒に遊ぶ父を、私はふしぎなものを見るような目で眺めていた。こんなふうに私は父に接してもらったことがなかった。書き物をしている父の傍ではおとなしくしていなければならないと、いつも思っていた。父が家にいるときは友人を連れてきて遊ぶこともなかった。父が声を出して笑い、息子たちと真剣になってゲームをし、父が負けると孫たちに「もう一回」とせがんでいるのがおかしかった。
 たくさんの思い出がつまった空間は、母の死とともにひとつ消え、また父の長期に渡る入院生活で消えようとしている。懐かしい思い出が次々と頭に浮かび、私の今回の最大の目的である家の中の物の処分は全く捗らなかった。
 (つづく)




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