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いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 父と私 1

 母は私を産んで一ヶ月で、職場(中学校)に復帰した。昭和三十四年に産後すぐ働く女性は珍しかっただろう。母は母乳を止めて、私を父の両親に預けて働いたのだった。父はこのとき定職はなく、家でこけしの絵付けなどの仕事をしながら、小説を書いていたのだ。東京で図書館司書の養成所を卒業した父は、司書の資格があったのに「片足である」という理由から、就職試験を受けたがどこにも採用されなかった。昭和三十年代は身体障害者にとって、優しい時代ではなかった。母は私が一家を支えるといって、働き続けてきた。子どものころは、当然母と過ごす時間よりも、父と暮らす時間の方が私は長かったのだ。しかし、幼いころの思い出は断片的に残っているが、ほとんど覚えていないといったほうがいいだろう。
 父が亡くなってから、妙に父のことが気にかかるようになった。忘れていたことを急に思い出したり、遺品の整理をしていて気がついたことや、父が遺した文章を初めて読んでどうして生きている間に読まなかったのかと、自分を責めた。私は大切なことをいつも後まわしにしていたのだ。
 私が高校生のときの話である。文学好きな友人が函館市立図書館でやっている文学の講演会があるので一緒に行こうと誘ってきた。文学に全く興味もなく、あまり気乗りしなかった私だが、図書館の帰りにどこかでパフェでも食べておしゃべりしたいと思ったのでその誘いを受けたのだ。いつも、学校と家の往復で普段遊びにも行かなかった私は、図書館に行くとなれば出かけやすいと思ったのだ。友人が次の日、講演会のチラシを持ってきてくれた。「樋口一葉の文学」とかで、ますます私の興味のない話だったが、講師の名前を見て驚いた。これは友人に断るしかないと思った。講師は父だった。友人は私の母が中学校の教師をしていることは知っていたが、父の職業は知らなかった。たぶん、私が母のことしか話さなかったのかもしれない。父にあとでこのことを話すと、「来ればよかっただろう、そういえばお前くらいの若い娘さんが来ていたな……」と教えてくれた。
 父は数学も得意で、中学、高校のときはよく父に勉強を教えてもらっていた。高校時代、夜遅くまで試験勉強をしていると、父特製のミルクセーキや寒い冬にはココアを作って部屋に持ってきてくれるのだ。それが頭にずっと残っていたのか、私も二人の息子が受験勉強していたときは、父と同じように小鍋にヴァンホーテンのココアを入れ、ゆっくりペースト状になるまで練って、牛乳とバターを溶かしていねいにココアを作った。脳が疲れているときは甘いものを摂りなさいと言って、ちょっと多めの砂糖を入れて父が作ってくれたココアの味が忘れられなかった。
高校三年生のとき、私は密かに函館を離れ進学することを考えていた。しかし、母は地元の大学に進んで、私にも教師になって欲しいと思っていた。突然、札幌の大学の話を出したときは、母は驚いたようで最初反対したが父が母を説得してくれたのだ。合格して札幌に引っ越すことになったとき、母は知り合いの人から教えてもらい近くに大学の経営ではないが、女子寮があるという情報を聞いてきた。しかし、入寮の際は経営者であるおじいさんが厳しい方で、親子揃っての面接があると言われた。三月は教師をしている母が一年で一番忙しい時期で、しかも三年生の担任をしている母は、休みをとることはできなかった。父が母の代わりに行くことになった。父はどちらかというと第一印象はよくないし、文学の話はよくするが一般常識的な話は向かないと私は思っていた。父と大学に行き手続きを済ませ、女子寮の案内をもらって向かった。雪のない時期なら歩いて十分くらいのところに寮はあったが、三月はまだ雪深く、札幌は函館と違って雪の量は何倍もあった。しかも、大学は春休み中でその道はきちんと除雪されてなかった。タクシーも通っていない道を父と二人で黙々と歩いた。私は革のひざまでのブーツを履いていたが、父は普通の足首までの防寒靴で女子寮に着くまでの間にすっかり雪まみれになっていた。義足の父にとってこの雪道は長く、二十分以上かかってたどりついた。寮のおじいさんに挨拶をして、案内されて椅子に坐るとき、父が膝にある義足のボタンを押し、「カチン」と鳴らして腰をおろすと、おじいさんが父に尋ねたのだった。父は七歳のとき結核菌が膝に入って足を切断したことを話すと、よくこんな雪深いなかを歩いてきてくれましたと言って、父の濡れたズボンをタオルで拭いてくれようとしたのだった。娘のために一生懸命だった父の飾らない姿が好印象で私は二階の一番日当りのいい部屋を契約することが出来た。

 四月に引越しも決まり、母が新しい布団や机、自炊の寮なので冷蔵庫、炊飯器などいろいろ用意してくれた。ただ、勉強しにいくのだからと言って、テレビとかステレオなどは買ってもらえなかった。お年玉で買った小さなラジオ付きのカセットを持っていただけだった。当然、四月は母にとっても入学式をひかえ、一年生の担任をする母は娘のためには学校を休めない。今までのように、祖母が母の代わりを務めることもできず、私はもう大学生だから一人で札幌にいくことに心では決めていた。ところが心配した父が二人分の列車の切符を買ってきて、父が付いて来てくれたのだ。でも、私のなかで今回はひとりで行くと決めたことなので、父と食事をして札幌駅の近くのバス停で別れた。大学の寮に行くバスに乗った私は、いつまでも手を振ってくれた父の姿が嬉しくて、胸がいっぱいになった。気がつくと、涙で父の顔が見えなくなっていた。あのときの父の姿は、五十歳になった今も私の頭に時々よぎって来るのだ。父は今の私より若く確か四十七歳だった。こんなふうにスタートした私の札幌での一人暮らし。たくさんの期待で胸膨らませていったものの、一週間で私はホームシックにかかってしまった。オリエンテーションばかりで、友人もできず、講義もまだ始まらず何をしていいかわからない毎日だった。家にいるときは毎日テレビばかり見ていた私だったので、テレビがないことも淋しさのひとつだった。このとき、本を読むことには目覚めなかったのだ。結局、一週間で函館に帰ってしまった。今思えば大変はずかしい話だが、私は真剣に父と母に大学をやめて函館で働くと言って頭を下げていたのだ。母は激怒し、「甘えるな……」と言ったが、父は「淋しかったらいつでも帰って来い」と言ってくれた。その夜、家族五人で夕食を食べ、次の朝、私は札幌に戻った。父は「淋しいときはいつでも帰って来い」と言ってくれたが、それからは淋しくて帰ることは一度もなかった。父の一言で私は救われた。そして、母の「甘えるな」という言葉はもっともだと思った。
 (つづく)




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