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いさり火文学賞

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父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


第13回 いさり火文学賞受賞作


 エッセイ 「父」 父と私 3

 父の一周忌の時、叔父が会食の席で父の若いころの話をしてくれた。もちろん、初めて聞くことばかりで興味深かった。父を知る身内が次々亡くなり、父や母の兄弟姉妹が年老いていく中で、今きちんと話を聞いておかなければ後悔するような気がしたからだった。叔父とふたりで話をしたことはなかったと思う。
  「兄さんは俺たち兄弟のなかでは一番頭も良かったし、物知りだったよ。小さいときから本ばっかり読んでいたからな……」
「おじさん、うちのお父さんとどんな遊びをしたの?」
「足を切断するまでは、兄さんも自転車に乗っていたな。でも、走り回ったりしたその夜は膝が腫れて病むから泣いていたみたいだよ。俺は覚えていないけど、すぐ上の兄さんが言っていたよ。あ、そうだ、兄さんが東京の大学にいっていたとき帰省して、また東京に戻るとき、俺が青函連絡船に一緒に乗って青森まで行ったな。兄さんの荷物を持って先にあの長いホームを走ったよ」
「え、どうして?」
「そりゃ、指定席なんて高くて買えないから自由席だろう。兄さんは義足で走れないから俺が代わりに走っていい座席をとっておくのさ。昔の青森のプラットホームは長くて階段もたくさんあるから兄さんには大変だったと思うよ。おふくろが兄さんのことを心配して、足の速い俺に頼んでいたという訳さ」
 たしかに、叔父はスポーツ万能で高校時代はラグビーの選手だった。
「俺は兄さんが上野行きの列車に無事乗ったことを確認したら、またすぐ折り返しの連絡船で函館に帰るんだ」
 私は叔父の話を聞きながら、まだ五歳くらいのとき、父と母と三人で東京に行ったときのことを思い出していた。あのときの母は長万部の叔父と同じだと思った。
 幼い私の手を引き、母は片方には家族三人分の大きな旅行カバンを持って、足早に青函連絡船から青森のプラットホームに移動した。周りにいた大人たちは誰もが無口で、列車に乗り換えるために急いでいた。私が振り返ると時々人に押されながら歩いていた父の姿が、どんどん小さくなり悲しくなっていたのだ。母は優しい声で「大丈夫よ、お父さんは間に合うように来るから」と言い、上野行きの列車に乗り込んだ。上中下の三段の寝台車で一番下は義足の父の席で母は一番上だった。荷物を寝台に置くと、母は私に待っているように言って父を迎えに走った。父が席に着くとまもなく列車は動いたのだった。
 叔父が懐かしそうに父の話をしてくれる中で、胸が締めつけられそうになった。家族三人で初めて出かけた東京も、アルバムを開くと上野動物園に行った写真や遊園地で母と二人でコーヒーカップに乗っている写真も貼ってあったのに、楽しかったシーンは甦ってこないのだ。青森のプラットホームを片足引きずりながら懸命に付いてくる父の姿と、重たい荷物を持って走っていた母の息づかい、そんな情景だけがいつも頭に浮かぶのだった。
 昔の話を聞きながら、父と叔父の兄弟としての繋がりの深さを初めて知り、そしてもっと驚いたのは祖母のことだった。孫である私がいつも見ていた祖母は、あまり周りの人のことを考えず、自分の思うままに行動する人だった。片足のない身体障害者の息子を、祖母がどれだけ心配しながら東京の大学に出していたのかがわかり、私は父を取り巻く人たちに対して今まで間違った感情を抱いていたことに気づかされ愕然としたのだった。父がホスピスで最期、祖母のことを心配して「だれに頼んだらいいだろう」と言ったとき、「心配しないで、私がいるから」と言えなかったことは、母の早すぎた死と今までの認識の違いのせいだったのかもしれない。父に娘として詫びなければならないことは、たくさんあった。

 父が亡くなって五年が過ぎようとしている。この五年間に、父がかわいがってくれた息子たちは、長男は社会人になり、次男は大学二年生になった。夫と私は特に変りはしないが、私は老眼になり、また体重が増えた。ホスピスに通っていたとき、突然、父のベッドの横に坐っていた私に、「お前、首のあたりに肉がついたな」と言ってきたことがあった。「老けて見えるから、背筋を伸ばせ」と、モルヒネの点滴をしていた父に言われたのだ。確かにあれから、また背中にも肉がついたかもしれない。母が亡くなってからの二年間、父と交わした何気ないおしゃべりが頭の中に浮かんだとき、もうこういう話ができないことを本当に淋しいと思うようになった。そんなとき私は、心の中で「お父さん」って呼んでいる。

 最近、鏡に写る自分の顔を見ていると、父に似てきたと思う。白髪の生え方もそっくりなのだ。
 今はそれが少しだけ「嬉しい」と思えるようになった。
                 (了)



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