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三島由紀夫

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三島由紀夫の謎(2)

 『十日の菊』の主人公大蔵大臣森重臣は、『憂国』の青年将校とは反対に、栄光の死を逸した政治家である。いわゆる生きのびた人間で、これはどこか戦後の三島由紀夫とかさなるところがある。
 十六年前の十月十三日、重臣は自室で叛乱軍の青年将校に襲われる。そのときを述懐して、「これこそ政治家の栄光の絶頂で、よくも狙ってくれた」という。その時、暗殺されていたら彼も『憂国』の青年将校のように至福をわがものにしていただろう。しかし、女中頭、菊の機転で助けられ生きのびる。以後重臣は毎年暗殺の記念日が来ると、ピストルを突きつけられたときの、人生の一等すばらしい「怖ろしい瞬間」を思い出し、怖い思いをもう一度したいと願う。しかし、そういう恐怖に満ちた栄光は再び来るはずがなく、重臣は、これまた過去に惚れた男から捨てられた今は父同様凡庸な日日を送っている娘豊子に、「十六年前の今夜、白刃とピストルと機関銃とに取り巻かれたいた輝かしいわたしが、今夜はこうして、不恰好なトゲだらけのサボテンに囲まれている。……いいかね、これが人生というものだ」と言う。
『十日の菊』は『憂国』より深い人生を感じさせるが、「……いいかね、これが人生というものだ」という重臣のセリフに、それほど重い響きはない。三島の視点も問題意識も、「……いいかね、これが人生というものだ」にないからだ。
『十日の菊』を読みながら、私は柳田國男を思い出していた。彼の『山の人生』の中の、二人の子供を殺害した炭焼の話である。『故郷七十年』という思い出を綴った本の中で、柳田は再びこの話を出しているから、よほど柳田はこの話に心を据えられていたのだろう。犯罪調書のなかにこの話をみつけると、彼は友人の田山花袋にこの話を持ち出す。そのへんの事が『故郷七十年』に出ているが、花袋は怖ろしくてとても小説にならぬという。柳田は当時の自然主義文学を余り買っていなかった。花袋の作品中で柳田が認めていたのは、『重右衛門の最期』で、他の花袋の作品は、一市井の重い犯罪記録と比べると何程の魅力もなく、事実は小説より奇なりという事実の奇に、小説は及ばぬと柳田は思っていたようである。
 炭焼の話にもどるが、山を降りて町へ行ったが、木炭が売れず、米を買うことも出来ず、腹をすかしている子供達の処へもどる。炭焼は子供と顔を合わせるのが忍びなく、不貞寝している。少し経って起きると、小屋に夕陽が当たり、近づいていくと、子供二人が斧を研いでいる。そして炭焼に、これで首を刎ねてくれと、丸太に二つの首を並べる。前後のみさかいもなく、ふらふらとなって炭焼は首を刎ねるが、自分は死にきれず警察に捕まる。 
 小林秀雄はこの話に人類の知恵を見て、こういう知恵があったから人類は亡びなかったのではないかという。彼らは山から降りて略奪をしてもいいわけだ。しかしそうしなかった。死を選んだ。私は『十日の菊』を読みながら、柳田の『山の人生』のなかの炭焼の話を思い出したが、比較していたわけではない。柳田は、「……いいかね、これが人生というものだ」とは一行も書かない。凄惨な事件を起こしたあとで死にきれず、生きのびるより仕様のない炭焼の、これからの重い人生を垣間見せている。これは小説がとうてい及ばない事実の奇である。しかしそれだけだ。この事実の奇には、三島由紀夫が『十日の菊』を書くさいの、微量な毒を含んで毎夜深い闇のなかで、見透しのきかぬ心の妄想に悩みつづけた発狂寸前の苦悩はない。
   『憂国』『十日の菊』『文化防衛論』と並べていけば、さて、この一本の道はどこへ通じているのか。自決以前とそれ以後とでは、この一本の道も、作品の読まれ方も評価も微妙に違ってくるだろう。はっきりした評価は下しにくい。小林秀雄ではないが、生きていれば、何をするか判らない。
 自決以後は、それを念頭に置かなくても、自然とそこへ考えがいくのもやむを得ない。しかし、私は、三島の作品に、三島の死の傾向性を読む読み方を戒めたい。むしろ逆ではないかと考えたい。三島は自分の死の傾向性を詳細に辿ることで、同時に、そこから生ずる微量の毒を封じ込めようとしたのである。
 もう一度、『十日の菊』を見てみよう。重臣は「栄光の瞬間」を逸した人間である。そういう人間は何を考えるか、暗殺されそこなった記念日を回想し、「怖しい夜」の再来を待つのである。しかし、そんな栄光が再び訪れるはずがないのだが、十六年ぶりに、彼を暗殺の危険から救った女中頭、菊が訪ねてくると、俄に事情が変わってくる。菊は素裸になって重臣を救った女だが、重臣はスキャンダルを恐れて十六年前に何がしかの金を付けて暇を出している。不意の菊の訪問に、重臣は当時の自分が菊にとった不人情な仕打ちを思い出して動揺するのだが、会って話をしているうちに、菊が十六年前の歴史の書き直しに来たことが判る。その菊に向って重臣は、「誰も歴史を書き直すことなんかできっこない。いわばお前は六日のあやめ、十日の菊になったのだ」と言う。
 『憂国』より『十日の菊』が面白いのは、過去回収が可能かどうかが主題になっているからである。作家にとってこれほど面白い主題はないだろう。『文化防衛論』は論文の体裁で書かれてあるが、この主題も、過去回収へ向っての三島由紀夫の告白である。そのエッセーの裾野に、『十日の菊』と同じ主題の、エロチシズムと死とが一つになった夜への願望が透けて見える。
 『十日の菊』に話をもどすが、重臣は菊に説得される。しかし、言葉ではなく、その肉体にである。十六年前彼を救った菊の肉体を彼は見ていない。叛乱軍に裸で立ち向った菊の肉体を知らないのである。それを具に見ることができたら、ひょっとして一度封印をした歴史のロウが溶けて、あの夜が、「栄光の瞬間」が戻ってくるかもしれない。こうして二人は、あの恐怖に満ちた一度きりの夜を甦らせようと、封印のロウを溶かす。それも叛乱軍も機関銃もなしにである。
 しかし、うまくいくはずはない。こんなにも平和な時代に、もはやいかなる緊張も危険も甦ってくる道理はない。
 これは菊や重臣だけの問題であるまい。同時に三島由紀夫の問題である。『文化防衛論』を書きながら、三島は何度も既に自分が望んでいる死場所が何処にもないことを確認した。いわば三島由紀夫は遅れてきて殉教者で、そういう人間は作家になるしかないのである。「栄光の瞬間」はもはや想像の世界のものでしかあるまい。それを熟知していた彼が敢えてそれと同じことをするはずはない。しかし、三島は実際市ヶ谷で自決している。しかも反乱軍も機関銃もなしにである。状況が変ったからでもあるまい。自決が作品の延長上のものではないとするなら、それは何を意味するのだろうか。私は、自決の寸前まで三島は文学の世界にとどまろうとしていたと考えているのだが、自決はまぎれもない事実で困っている。

 言葉で片付く死というものはない。死は謎だ、狂気が謎であるように。それでだまって受けいれるしかあるまい。死とはそういうものらしい。出産予定日がしばしば狂うが、それはどうしてか判るかと、あるとき友人の坊主に訊ねられて、私は返答に窮したことがある。彼がいうには、それはまだその人の命日が決まらないからだという。先に命日があるというのだが、この説の方が死というものを包括的に語っているかもしれぬ。
 三島が生まれたのは大正十四年一月十四日である。友人の説でいうなら、このときすでに四十五年後の、十一月二十五日の彼の自決が決まっていたことになる。まだ三島もいたるところで予定説を披瀝している。それで人は彼の作品の延長上に自決を見たり、三島が自決したことで、彼の虚構はこれで完成されたと言ったりする。そういうことを私が嫌うのは、そういう見方はかなり安易だからである。そしてまた、それは彼の作品の評価を誤るからである。
 戦中と戦後と、このまるで違う二つの世界を三島がどんなふうに生きかたを知るには、『十日の菊』で十分である。戦争中はいつ殺されるかわからない栄光の時代である。それにひきかえ戦後は夭折や美しい死からの転落である。「歴史は書き直せるか」を宿命的に考えなければ、なにもかも相対的になっていく世の中では、もはや生の充実も自由もない。彼の小説が、世界解釈としての虚構の世界へ限りなく近づこうとするのは当然で、それなりの必然性がある。彼が太宰治を嫌うのは、「栄光」の喪失を太宰は私小説ですまそうとしたからだ。しかし、三島と太宰とは非常に似ているところがあるのであり、それは他日にゆずるとして、三島の、世界解釈としての文学は、当然、私小説で書ききれない。「セルバンテスはドン・キホーテではない」という太宰批判は、同時に三島の小説批判でもある訳だ。しかし、どうしてこうした三島の文学への姿勢が、晩年崩れたのだろう。
 『ドン・キホーテ』を書くには、サンチョ・パンサーを必要とするという小説作法は、早くから三島のなかに出来あがっていた。だから太宰のどこに、醒めたサンチョ・パンサーがいるのか、ということになるのだろう。そういえば三島の境遇はどこかセルバンテスと符号する。
 ストレイチの『エリザベスとエセックス』は、英国側の見たスペインの敗北だが、世界に誇る無敵艦隊が壊滅すると、スペインは英国の干渉を受けねばならなかった。その一例がスペイン領だったポルトガルの独立である。同時にまた、一五八八年は中世の終焉でもあって、商業資本主義が台頭して世相が一変する。物質の豊かさが表に出てくると、もう誰も、騎士道も理想もかえりみない。恰も三島が戦後の日本の繁栄を見て、「生命のみ尊重され、魂は死んでもいいのか」と言ったが、セルバンテスもまた、近代の合理主義や商業資本の台頭で騎士道精神が亡びていくのを忌ま忌ましい思いで見ていた。
 彼は兵士で急進的なナショナリストであった。またスペインの無敵艦隊の壊滅は同時に彼の青春の挫折でもあった。ラ・マンチャの生まれ故郷に還ったセルバンテスが、晩年『ドン・キホーテ』を書いたのにはそれなりの理由がある。いわば彼は、亡びゆく中世の精神の体験者、目撃者で、いずれ中世のよさが、一片も残されずに追放されることを知っていた。その復権として、セルバンテスはもっとも愚かな郷土ドン・キホーテを想像した。愚かであればあるほど、いかに中世が遠いか、いかに中世が美しいかを遂に浮彫りにすることができ、近代の合理主義や商業主義に立つ冷静なサンチョ・パンサーの眼にも、自分の主人の愚直さが、ふと、輝いて見えることがあった。
 花田清輝の『「ドン・キホーテ」註訳』というエッセーによると、『ドン・キホーテ』は有名なわりに読まれないのは、イスパニア語を知っていることが、この本を面白く読むための不可欠な条件であり、今一つこの本の芳醇な味をとらえるには、若い読者では無理かもしれぬと、ジャン・カスーの言葉を挙げて説明している。
 今世紀、『ドン・キホーテ』をもっともよく愛読したのは革命家のチェ・ゲバラだろう。彼は野営の折り兵士らに、『ドン・キホーテ』の一節を読んできかせたという。姪に自分がしてきた行為を話す、ドン・キホーテの臨床の場面である。ゲバラは一九二八年アルゼンチンで生まれ、キューバで戦い、グァテマラで革命家になった。『ドン・キホーテ』をいつも懐にいれていたのは、彼の体にスペインの血が流れていただけではあるまい。風車に挑む愚直なドン・キホーテの姿は、もっとも革命家に近い。革命家とは歴史の必然性を信じて、「非在への情熱」を求める者のことで、ゲバラにとって、『ドン・キホーテ』は心を慰める拠所だけでなく、気持を駆りたてる希望の書でもあった。『ドン・キホーテ』は芳醇な味わいだけでなく死地へ赴くことを何とも思わぬ毒さえ含んでいるのである。
(つづく)
(「北方文芸」1992年6月号)

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