三島由紀夫

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三島由紀夫の謎(3)

 文芸誌「人間」に『煙草』が載ってまもなく、太宰治を訪ねた三島由紀夫は、太宰に向って、「あなたが嫌いです」と言ったというが、その理由として、自分が隠したいと思っているものを太宰がおくめんもなく露出しているからだと、『私の遍歴時代』のなかで述べている。かりに三島も、子供の頃からずっと引き摺ってきたドン・キホーテ的幻影と一体になることしか考えていなければ、彼もまた私小説で済ませただろう。そうならなかったのは、セルバンテスのように虚構と現実の狭間で生きようとしたからだ。幸い言葉には古代も中世も生きている。生活様式がいくら変わろうが、祖国も精神も息づいている。それを巧みに駆使すればその両方を甦らせることは可能である。
 しかし、私の「三島論」はこのへんから、さらに困難にぶつかる。三島は太宰を嫌っておきながら、結果的には同じ方向へいったからである。
 ゲバラが、野営の折り兵士に読んでやった『ドン・キホーテ』の一節とは、臨終の場面である。ここでドン・キホーテは、自分は狂っていない、自分のやってきたことは、愚かしく見えても、狂っていないことをしきりに告白する。革命家は狂っているのだろうか。こういう迷いは絶えずゲバラにあったと思う。その反省が、野営の時の、ゲバラの朗読だろう。
 三島由紀夫は、セルバンテスのように虚構と現実の狭間で生きようとしながら、彼の小説には、ドン・キホーテの臨終の場面はない。このことについて、後でもう一度触れるが、三島由紀夫とまったく対極的な生き方を選んだ文人に司馬遷がいる。彼は友人李陵を庇って、武帝の逆鱗に触れて死刑を宣告された。かりに司馬遷が宦官を申し出ないと、彼はそのまま処刑され、死をもって李陵を庇った義人という名誉を得ただろう。しかし彼は、宦官を申し出て、その名誉を捨てた。三島流にいうなら、「栄光の瞬間」を逸した男である。武田泰淳も、その自著『司馬遷』のなかで、「彼は生き恥さらした男である」といっている。「士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った」「腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがわらしい。性格まで変るとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた」
 三島は永いこと小説を書いてきたのだから、言葉を駆使するとは、どういうことか判らぬはずはない。『十日の菊』の重臣は政治家だから、「栄光の瞬間」をとり逃した後、トゲのあるサボテンいじりしかできないが、司馬遷には大事な記録をとるという仕事が残っていた。武田泰淳はさらに続けて、「記録は実におそろしいと思う」という。「記録が大がかりになれば世界の記録になるし、世界の記録をなすものは自然、世界を見なおし考えなおすことになるのである」
 小説もこれと変らない。深夜の机に向ってその白い紙に文字を埋める。たんにそこに文字を並べるのではなく、作家は、古代も中世も生きている言葉を駆使して、隠されている人間存在の振幅をさぐっていく。柳田國男が、何か小説の題材になる話がないかと、花袋にいわれて、二人の子供の首を刎ねた後自分は死にきれずに生き残った炭焼の男の話を提出したが、作家はこういう問題こそ考えるべきだということだろう。それにたいして花袋は、とても恐ろしくて題材にならぬといったが、その恐ろしい問題に踏み込まなければ世界を見なおすことも、人間を見なおすこともできない。そういうことは三島由紀夫はよく承知していたはずである。
 楯の会を作った頃から、三島はしきりに作家にたいして、疑問を投げかける発言をするようになった。簡単にいえば、作家とは曖昧な存在だというのである。作家はいろんな人物を創造するが、その人物のどれが彼なのか判らない、そこへいくと行動家はいつも一つの明晰な行為で判断される。
   たとえば司馬遷は処刑されていたら、友人を庇った義人として歴史に残る。これの方が判り易いが、その代り、『史記』は存在しない。また柳田國男が炭焼の話に拘ったから、あの凄惨な犯罪事件はいつまでもわれわれの記憶に残るのである。さらにいうならパウロがいなければこの世にイエスは甦らなかったろう。
 三島由紀夫はそういうことが誰よりもよく判っていた作家である。作家とは白い紙に、死者を甦らせることであり、彼の十代の小説はみなそんなふうにして生まれた。彼の傑作『獅子』は古代ギリシャの復元で、これはエウリピデスの『メディア』を戦後まもない東京に甦らせた傑作である。メディアは自分の愛児二人を自分の手で首を締めて殺した。それは夫が自分を裏切ったからであり、また、夫が何より二人の子供を愛していたことを知っていたからである。炭焼の男は、飢餓からいたいけな子供二人の首を刎ね、メディアは、男女の愛憎から愛児二人を殺害した。こうして人間はふとしたことからすべてを失い、その魂は地獄を彷徨うのである。メディアは古代ギリシャの伝説に出てくる一途な女である。情熱と恐怖の女である。それを詩人エウリピデスは詩劇にし、今度はそれを数千年後、三島は戦後の日本に、繁子という女に仕立て小説にした。
 『獅子』は1946年10月10日の、川崎家の朝から始まる。家付の女主人繁子はこんなふうにして、凶事が起こる朝を迎える。「ここ数日のように良人の寿雄が彼のいわゆる”社用の”旅行でかえらぬ毎夜も、繁子は彼の床を敷かせずには眠れなかった。空しく冷たい床であっても、それを傍らに見ずには眠れなかった。」
「不快な予感のような目覚めである。朝は怖ろしかった。それは病人にとっての夜のような朝だった。繁子は残酷な忌まわしい夢からさめた。口の中が血の匂いでいっぱいのように感じられた。悪夢の中の流血の印象が口にのこったのであるまいか。そうではなかった。月のそのもののその日には、繁子はそういう感じがして目をさますのが常だった。その日一日は何を食べても血の味がした。」
歌曲、つまりクラシックが流行歌よりむずかしいのは、勝手な歌い方を許さないからである。翻案も同じで、好き勝手に主人公を書くのと違って、すでに古典的な人物になっているメディアを現代に、しかも日本にうつしかえるには並の才能ではできない。『獅子』はまさにそういう意味では三島由紀夫の創造力の凄さを教えている作品である。
私が、『獅子』から引用した文章から判るように、三島は小説とは何かということを最初から知っていたのである。それは死者を甦らせる孤独な作業で、晩年彼が『豊饒の海』を書いたのも頷ける。死者や過去を甦らせることができるのは、われわれの生活様式にはすでに古代も中世も死滅しているが、言葉にはそれが生きているからである。あとは作家がその言葉をどう駆使するかである。
そういうことを知っていた三島が晩年なにゆえに動揺したのだろう。作家の仕事とは言葉を駆使して死者を甦らせるといったが、もう一つの作家には大変な問題がある。それは虚構と現実の狭間で苦悩するということである。三島もその虚構と現実の狭間で苦悩した。このへんの事情を垣間見るのに恰好な本がある。『太陽と鉄』である。
あるアメリカの女性評論家が、『太陽と鉄』を読んで、遠からずこの作家は自殺するといったというが、結局その通りになったから、この予言は当たったということになるだろう。しかし、それは素直に読んだ結果の答えというにすぎない。虚心に読めば三島由紀夫はこの本のいたるところで、自殺をほのめかしている。それも逃避としての自殺ではない。積極的な自殺である。
三島由紀夫はこういう。「苦痛とは、ともすると肉体における意識の唯一の保障であり、意識の唯一の肉体的表現であるかもしれなかった。筋肉が具わり、力が具われるにつれて、私の裸には、徐々に、積極的な受苦の傾向が芽生え、肉体的苦痛に対する関心が深まって来ていた。」
小林秀雄の言葉をかりると、ここに、「ささやかな観念が発狂」させる姿を見ることが出来る。その「ささやかな観念」とは、「意識の唯一の肉体的表現」としての古典的な肉体の造形である。三島は、いかに自分が、第二言語ともいうべき肉体を造っていったかを『太陽と鉄』のなかで刻明に記録している。そして、遂に、彼は第二言語というべき肉体を保持したのである。こうなればあとは「積極的な受苦」を待つばかりである。
(つづく)
(「北方文芸」1992年6月号)

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