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娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


母の手術

〈3〉
 麻酔から覚め、次の日、母は自分の手術がどうだったのか、気にしていた。回診の時、担当の医者は母の手を握り詳しい話はしなかった。最後に病室を出ようとしていた若い医者に、母が昨日の手術の事を尋ねると彼は、癌は取り除く事ができず、そのままとじた・・・と言う内容を伝えてしまった。いずれ、本人には本当の事を話すつもりだったが、こんなかたちでわかってしまい、私も驚いた。母の顔は急に暗くなった。何のための手術だったのか・・・と声を荒だてた。深い地の底になげだされたような絶望感を味わったにちがいない。
 私は何年たっても手術の前の母の淋しげな顔とこの時の顔が目の前にちらつき、済まないという気持ちでいっぱいになる。
 母の身体に癌がある以上、次の治療は放射線だった。そのために別の病院に移り最後の可能性を信じて放射線治療が始まった。何回か見舞いに行った時、母が私に頼みがある、というのだった。頼みがあるなんて、今まで言われたことがなかった。いつも私の札幌の家族の事を第一に考え、娘の私に甘えることがなかった。傍にいてほしくても、その言葉は口にせず、早く札幌に戻りなさい、心配するな・・と言っていたのに。頼みの内容を訊くと、六月くらいには退院できるからお世話になった人を集めてお礼の会をしたい・・・と。鯉之助の二階でやるからそこに私も出て、皆さんに挨拶してほしいと話していた。鯉之助とは函館にある鰻やさんでそこのご主人は父が文学学校でおしえている時の生徒さんだった。父はここの鰻が好きで、私も良く食べに行った。皆さんとは父が発行、編集していたタウン誌の会社のスタッフや父が教えていた文章教室の生徒さんのことだ。私が札幌に戻っている間は父の生徒さんたちが献身的に看病してくれていた。本来ならひとり娘の私がもっと父や母の面倒をみるべきなのに仕事もあり息子たちの事もあったので皆さんに甘えていた。
 母からお礼の会の話がでたころ、放射線担当の医者に何度かよばれていた。膀胱という難しい場所に癌があるため期待できない結果だと知らされた。奇蹟はおきなかった。この時、父も同じ病院で前立腺癌の放射線治療を受けていた。医者はお母さんの事はあなたにだけ、本当の事を伝えますから・・と話し父には全てを話していない事を私に告げた。病院に行くたび、医者から難しい話を聞かされ、一人っ子の私は誰にも相談できず苦しかった。何度も病院の外に出ては声をだして泣いた。病室に戻ると父は母の容態を訊き、医者が何て話したか質問してきた。いつも言葉を選んで話すのが苦しかった。私はもう疲れていた。札幌に戻る列車の中で今まで静かだった私の心が急に破れとめどなく涙があふれてきた。あと何回、母に会えるだろうか、話ができるだろうか、そんな事ばかり考えていた。

〈4〉
 五月、母と父は放射線治療が終わり手術を受けた最初の病院にもどった。少し容態が良くなった時期もあったがそれはほんの一時だった。
 六月、主人と二人で母の見舞いに行ったとき、病室にはビールが用意されていた。
母が父に頼んで、このままだと雅司さん(私の夫)がずっとビール、飲めなくなるからここで二人で飲みたいという話だった。この時、母は自分がもう回復できないと思っていたようだ。主人が心置きなく飲めるようにという、母の精一杯の感謝だった。父は寿司も頼み、この日のために薩摩切子のひとくちビールのグラスも2個買ってあった。母は主人と乾杯しゴクゴクと飲んだ。この時の母の笑顔は最高だった。普段全く食欲もなかったのに寿司も二貫くらい食べたようだ。飲み終わってから母は私にこのグラスを札幌に持って帰るように言った。 お母さんにはもう必要ないから・・・。今、ここでグラスを受けとるともう二度と母に会えないような気がした。このグラスは父がこの日のために職人展で1個2万円近くもしたのにガラスの美しさに惚れて買い求めた、母への最後のプレゼントだった。父がグラスを箱にていねいにしまい、今度、札幌で飲むから・・・と言って私に差し出した。
 夫と一諸に楽しそうにビールを飲んでいた母が二週間後に旅立った。最後、熱が続き腹水がたまり苦しんだ。亡くなる前日、わたしが駆けつけた時、もうほとんど話はできず別人のようだった。ふと、三月の十日頃だったろうか・・・検査中の母の事を思い出した。心配になり日帰りで様子を見に行ったとき母が自販機のホットコーヒーを飲みたいが買い方がわからないから教えてほしいと言った。病院の最上階には喫茶店があり患者さんも利用しているが尿道からお小水の袋をさげていたので入れなかった。コーヒー好きの母はずっと飲みたくても自販機の使い方のわからず我慢していた。確かに年寄りには難しいかもしれない。私も説明をよみながら二人分のコーヒーを買った。母は満足したようにロビーの椅子に腰かけコーヒーを飲んだ。紙コップのコーヒーは特別おいしいわけではないが、今思えば、娘と二人で飲める時間がうれしかったのだろう。夕方の列車で帰る私をエレベーターの前まで見送りに来て、封筒を私に渡し、気をつけて帰るように何度も手をふっていた。中にはお金と手紙が入っていて孫たちへのおみやげと夕食代に・・・と書かれていた。最後に今日は来てくれてありがとう、というこの一行が見送ってくれた母の顔と重なり、たまらなく悲しかった。
 身体中、管でつながれ酸素吸入までしている母を見ているのはつらかった。子どもたちを札幌に置いてきてきていたのでいったん戻ることにした。そのため母の最期を看取る事ができなかった。

 片足の父を一人置いて逝けない・・・、といつも言っていた母が旅立ったのは平成15年6月22日、手術から三カ月後だった。母と乾杯した薩摩切子のグラスは我が家のサイドボードに飾られ、母の命日の日にだけ今もビールが注がれる。



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