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娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


いさり火文学賞

 いさり火文学賞とは北海道新聞函館支社が道南の文学振興のために1998年に創設したもので、今年で13回目になる。父は創設当時から審査員を務め、たぶんホスピスに入院する前の年(2004年)まで審査をしていたと思う。
 父が亡くなってから父のことを文章にして残したいという想いが強くなり、札幌市民文芸に投稿したり、娘のつぶやきに書いたりしていたが、締め切りがないと何事も行動をおこせない私はいさり火文学賞に挑戦してみることを考えていた。父が亡くなったから、挑戦できる文学賞だった。
 私が初めていさり火文学賞に応募したのは二年前。今年は三回目の挑戦だった。
 原稿用紙40枚以上80枚以内という応募要項を眺め、私に書けるだろうか。今まで原稿用紙5枚以上の文章は書いたことがない。40枚ぎりぎりでは、かっこうがつかないだろうと勝手に考え、目標は50枚と決めた。小説、自分史、エッセイなどいろいろジャンルはあるが、何を書けばいいか全くわからない。わかっているのは、亡くなった父と母のことを書きたいという強い気持だけである。
 私は父が作家で母が国語の教師だったのに、二人からは何も教えてもらったことがなかった。いや、私が親の話に耳を傾けなかっただけだろう。父は外では函館文学学校で指導をしたり、文章教室の講師などでたくさんの生徒さんをもっていた。そんな父を遠くから見て、文章を書くためには勉強しなくてはならないのかといつも思っていた。
 本も読まない、文章を書くために何かの教室に通ったこともない私はどうすればいいか全くわからなかった。とりあえず、本屋さんに行ってみた。雑誌か料理の本しか買わなかった私が文学のコーナーに立っている。捜し方もわからず、うろうろとしていると、文庫本のコーナーで井上ひさしさんの『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』というタイトルの本に目がとまり、これなら読めるかもしれないと思い買うことにした。考えてみると、私は原稿用紙の書き方、決まりごとも知らなかったのだ。
 人に伝わる、わかる文章を書くことの難しさを痛感した。書きたい想いだけがどんどん膨らみ、言葉が出てこない。どうやって表現しようか、悩んだ。私の悩みをいつも聞いてくれてアドバイスしてくれるのは、父のもとでずっと編集の仕事をしていたタウン誌「街」のYさんとKさんである。大野晋著『類語国語辞典』を手元に一冊用意したほうがいいと言われ、さっそく本屋さんに買いに出掛けた。辞典は父が買ってくれていたので、初めて自分で買い求めた。同じ意味の表現でも、こんなに言葉があるのだと知り愕然とした。父によく「お前は本を読まないな、言葉を知らないから子どもの叱り方もワンパターンなんだ」と子育てをしているときに言われたことを思い出した。しかし、ここで諦めるわけにいかなかった。
 2008年は自分史というジャンルで、2009年は私小説で応募した。どちらも落選。今年は自分の素直な気持を表現しようと考え、エッセイでタイトルもズバリ、「父」にした。父への詫び状のつもりで書いた原稿用紙53枚。
毎年、十月になると選考結果が気になっていたが、家族にはそういう姿を見せなかった。今年もやっぱり駄目かと諦め、いさり火文学賞への挑戦は今回限りにしようと考えていた。そんなことを考えていた十月六日、ノーベル化学賞の発表があり、北海道大学の鈴木名誉教授が受賞したという嬉しい知らせを聞いた。ひとつの研究に五十年なら、私は三年くらいで諦めるなんて言っていられないと思った。また勉強して来年挑戦しよう、五年はとりあえず頑張ってみようと決心したときに、受賞の連絡をいただいたのだった。本当に嬉しくて、信じられなかった。最初に頭をよぎったのは、毎晩遅くまで机に向かって書き物をしていた父の後姿だった。受賞式の前日、函館に行った私は父と母が眠る墓に行き、受賞の報告をした。
「うちのことを書いてみないか……」と父に言われたのは今から十年以上前、やっと父からの宿題をやりとげた気分である。



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