娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


やっと完成

 何からお話したらいいのか……。久しぶりの「娘のつぶやき」です。朝日新聞の「北の文化」でタウン誌「街」の50年誌の完成が3月末くらいとお話しましたが、大幅に予定が変わってしまい、やっと校了になり6月10日から印刷にはいりました。6月25日には完成しますのでぜひ読んでいただき、一冊お手元に置いていただけると嬉しいです。函館のタウン誌を読んだことのある方は懐かしいと思うでしょう。一度も見たことのない方でも興味をもっていただけるページがあり、50年前にこんなタウン誌があったのだと驚いていただけると思います。函館、札幌市内の書店(紀伊國屋、ジュンク堂、くすみ書房)でも購入できますが、このホームページからもお申込みいただけますのでよろしくお願いいたします。

 本を作るということは実に大変なことで根気のいることだとわかり、父が43年間一度も休むことなく続けてきたタウン誌の編集発行の苦労を、今回の経験で多少理解できたと思っている。50年分のバックナンバーを見ることから始まった作業は、楽しい発見や感動もあったが実に地味な仕事だった。中綴じの針金止めがさび付いて、ひらくたびにページがパラパラとはずれてくるくらい古い昭和30年代のタウン誌。当時は活字なので版がかけて読みにくくなっているものや、紙の色がすっかり変色したものなど長い時間を感じながら丁寧に一枚ずつページをめくっていくと、私の記憶はいつのまにか函館の時任町で暮らした時間にもどっていた。今まではいつも同じシーンだけが頭のなかによみがえっていたが、父の古い文章に触れていくうちに、すっかり忘れていた出来事を思いだし少しだけ嬉しくなった。父のペンネームも木下史高だけではなく、いくつかあったことを初めて知った。
 毎月、タウン誌を発行するということは、当たり前だが1年間に12回出すわけで印刷に入れたときには、すでに次の月の校正が始まっていたのだろう。座談会や企画ものなら、半年先のことを準備していたのかもしれない。父は自宅で夜中、小説を書き、昼間はタウン誌の編集と文学学校の講師をしていた。片足の不自由な身体で、しかも晩年は10年近くも癌の治療をしながら、タウン誌の発行を続けてきた。私はこの50年誌の作業だけで大変だと思い、途中胃の調子が悪くなり薬をのみ、肩と腰に大きな湿布を貼って「疲れた」を連発していた。私には自由に使える両手も両足もあるのに。
   私は父が亡くなった後、父の書いたものをきちんと読んでおかなければならないと思った。しかし、50年誌を作るということがなければ、こんなに熱心に見ることも読むこともなかっただろう。二年間、この記念誌の制作のために函館に通い、たくさんの方から父の話を聞くこともできた。函館での時間は私に過去を思いだすことをあたえてくれた。父がよく口にしていたバルザックという作家の言葉、「希望は過去にしかない」。中学生のころ、「希望は未来だろう……」と思って、父の話やこの言葉の父の解釈などに耳をかすことはなかった。しかし、この記念誌の作業で過去を思いだし、過去の時間に触れることで再び生きるパワーをもらうことができた。私にとって実にいい時間だった。




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