娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


十三回忌

 今年、父の十三回忌だということをすっかり忘れていた。7月初めだっただろうか。伊原さんと電話で話をしているときに「先生の十三回忌だね、10月に何かしましょう」と言われ、私はドキッとした。そうだった、一昨年の6月、母の十三回忌は覚えていた。お寺に連絡して法事の準備をしようと思っていたが、私の左足の手術が決まったために法事を諦め、入院前にひとりで函館に行き墓参りだけをしてすませた。七回忌まではちゃんとやったから許してくれるだろう。いつも父と母のことはふたりセットでなにごとも考えていた私なのに、今回はすっかりそのことが頭の中から抜け落ちていた。言い訳になってしまうが、この二年間、私は足の手術を三回もおこない、今もリハビリ中である。きっと、あの世で父と母は心配しているにちがいない。

 一昨年の7月、半月板の縫合手術をして1か月、車椅子生活だった。退院後も松葉づえがなければ歩くことできなかった。片足での生活を器用にこなしていた父の姿を思い浮かべ、初めて、父の苦労が身に滲みた。半年後の昨年2月、ツルツル路面の横断歩道で転倒してしまった。咄嗟に半月板手術をした足をかばおうと思ったが、手術した左足の大腿骨と膝を複雑骨折した。手術後、私の足の骨は、20センチのプレートと14本のボルトでつながれた。麻酔がきれると痛みに襲われ、何度も痛み止めの注射をうってもらった。

 父が書いた「骨の詩」のなかに、右脚を切断し、火葬された脚の骨を抱いて退院する話がでてくる。当時7歳だった父が麻酔から目を覚ましたときの痛みと苦しみを私なりに想像した。手術から2日目の朝、股関節から足首まで固定された足を板の上にのせ、車椅子で私はリハビリ室に向かった。必ず治る足だから、痛みに耐えなければならないと自分に言いきかせた。と言うものの、3か月の入院生活は長く辛かった。

 私が手術をした2月18日はSTVでラジオ番組「ほっかいどう百年物語」の収録に立ち会う日だった。話がかなり前になるが、父の三回忌のときに、父の書いてきたものをもっと多くの人に読んでもらおうと夫が提案し、ふたりで父のホームページ「天使の微笑み」を開設した。最近は更新をさぼっているが、最初は月に2,3本の新聞コラムやエッセイを紹介していた。そこに父の本を読んでみたいという芦別に住む女性から本の注文があった。しばらくして、その女性が「ほっかいどう百年物語」の番組構成担当者だと知った。木下順一に興味をもち、ぜひ物語を作りたいと言ってきた。私に連絡があったときには、ほぼ原稿が出来あがっていた。驚いた。父と会ったこともない女性が、「なぜ?」と思ったが、嬉しかった。この嬉しいという感覚は、父が死んでまもない時期にも私は味わっていた。東京の受験関係の問題集を出している出版社から一通の手紙があった。広島県にある某私立高校の入学試験問題に父の「文鳥」がつかわれたのだ。過去問題集に掲載する場合は著作権の問題があるので、許可してほしいという内容だった。数千円だったが3年間、私の口座に著作権料が振り込まれた。それから数年後、父の評論が法政大学の受験問題にも使われた。父がこの世にいなくなっても、何かと父に関わることがあるたびに、その存在を身近に感じるようになっていた。「ほっかいどう百年物語」の収録は無事終わり、2月28日に放送された。私は病院のベッドの上でヘッドホンをつけてラジオを聴いた。

 桜が咲くころにやっと退院することができた私は、次の手術に向けてハードなリハビリ生活が始まった。今年3月、抜釘手術が終った後、医者が消毒したプレートと14本のボルトをきれいな袋に入れて渡してくれた。ずっしり重みを感じた。ボルトは美しいエメラルドグリーンできらきら光っていた。私の左足を支えてくれた金属だった。父が7歳のときに切断した脚をアルコール着けにしてくれると言った医者との約束は守られなかった。私は家族や友人に自慢して、この金属を見せた。あまりの大きさと重さに誰もが嫌悪感を見せた。私の行動は父に似ていると思った。

 父への報告はもっとあるはずだったが最近二年間の足の話になってしまった。最後にこの十二年の間、頻繁に私を函館に呼んでくれたのは父のおかげだと思っている。墓参りはもちろんだが、父が遺してくれた人との繋がりがいつも私を元気にしてくれた。2005年2月、父がタウン誌「街」を終刊したときに、いつかこの雑誌に関わった人たちと同窓会をしたいと話していた。五島軒での今日の集まりを、翌日、墓にいって報告しなければならない。

今年、父の十三回忌だということをすっかり忘れていた。7月初めだっただろうか。伊原さんと電話で話をしているときに「先生の十三回忌だね、10月に何かしましょう」と言われ、私はドキッとした。そうだった、一昨年の6月、母の十三回忌は覚えていた。お寺に連絡して法事の準備をしようと思っていたが、私の左足の手術が決まったために法事を諦め、入院前にひとりで函館に行き墓参りだけをしてすませた。七回忌まではちゃんとやったから許してくれるだろう。いつも父と母のことはふたりセットでなにごとも考えていた私なのに、今回はすっかりそのことが頭の中から抜け落ちていた。言い訳になってしまうが、この二年間、私は足の手術を三回もおこない、今もリハビリ中である。きっと、あの世で父と母は心配しているにちがいない。

 一昨年の7月、半月板の縫合手術をして1か月、車椅子生活だった。退院後も松葉づえがなければ歩くことできなかった。片足での生活を器用にこなしていた父の姿を思い浮かべ、初めて、父の苦労が身に滲みた。半年後の昨年2月、ツルツル路面の横断歩道で転倒してしまった。咄嗟に半月板手術をした足をかばおうと思ったが、手術した左足の大腿骨と膝を複雑骨折した。手術後、私の足の骨は、20センチのプレートと14本のボルトでつながれた。麻酔がきれると痛みに襲われ、何度も痛み止めの注射をうってもらった。

 父が書いた「骨の詩」のなかに、右脚を切断し、火葬された脚の骨を抱いて退院する話がでてくる。当時7歳だった父が麻酔から目を覚ましたときの痛みと苦しみを私なりに想像した。手術から2日目の朝、股関節から足首まで固定された足を板の上にのせ、車椅子で私はリハビリ室に向かった。必ず治る足だから、痛みに耐えなければならないと自分に言いきかせた。と言うものの、3か月の入院生活は長く辛かった。

 私が手術をした2月18日はSTVでラジオ番組「ほっかいどう百年物語」の収録に立ち会う日だった。話がかなり前になるが、父の三回忌のときに、父の書いてきたものをもっと多くの人に読んでもらおうと夫が提案し、ふたりで父のホームページ「天使の微笑み」を開設した。最近は更新をさぼっているが、最初は月に2,3本の新聞コラムやエッセイを紹介していた。そこに父の本を読んでみたいという芦別に住む女性から本の注文があった。しばらくして、その女性が「ほっかいどう百年物語」の番組構成担当者だと知った。木下順一に興味をもち、ぜひ物語を作りたいと言ってきた。私に連絡があったときには、ほぼ原稿が出来あがっていた。驚いた。父と会ったこともない女性が、「なぜ?」と思ったが、嬉しかった。この嬉しいという感覚は、父が死んでまもない時期にも私は味わっていた。東京の受験関係の問題集を出している出版社から一通の手紙があった。広島県にある某私立高校の入学試験問題に父の「文鳥」がつかわれたのだ。過去問題集に掲載する場合は著作権の問題があるので、許可してほしいという内容だった。数千円だったが3年間、私の口座に著作権料が振り込まれた。それから数年後、父の評論が法政大学の受験問題にも使われた。父がこの世にいなくなっても、何かと父に関わることがあるたびに、その存在を身近に感じるようになっていた。「ほっかいどう百年物語」の収録は無事終わり、2月28日に放送された。私は病院のベッドの上でヘッドホンをつけてラジオを聴いた。

 桜が咲くころにやっと退院することができた私は、次の手術に向けてハードなリハビリ生活が始まった。今年3月、抜釘手術が終った後、医者が消毒したプレートと14本のボルトをきれいな袋に入れて渡してくれた。ずっしり重みを感じた。ボルトは美しいエメラルドグリーンできらきら光っていた。私の左足を支えてくれた金属だった。父が7歳のときに切断した脚をアルコール着けにしてくれると言った医者との約束は守られなかった。私は家族や友人に自慢して、この金属を見せた。あまりの大きさと重さに誰もが嫌悪感を見せた。私の行動は父に似ていると思った。

 父への報告はもっとあるはずだったが最近二年間の足の話になってしまった。最後にこの十二年の間、頻繁に私を函館に呼んでくれたのは父のおかげだと思っている。墓参りはもちろんだが、父が遺してくれた人との繋がりがいつも私を元気にしてくれた。2005年2月、父がタウン誌「街」を終刊したときに、いつかこの雑誌に関わった人たちと同窓会をしたいと話していた。五島軒での今日の集まりを、翌日、墓にいって報告しなければならない。
(2017「十三回忌メモリアル/追伸」)



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