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娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


母の記憶

 先日、大学時代の友人三人と久しぶり小樽に行ってきた。小樽の街をゆっくり歩いたのは何年ぶりだろうか?JRでたった30分くらいのところなのに足を運ぶことがなかった。
 女四人集まると話が絶えることはない。五十路になると自分の身体もだんだん思うようにならなくなる。腕が上がらない、肩こりがひどい、目の調子が悪いなどきりがない。そして、最大の関心事は年老いてくる親の事である。両親を亡くした私にとってもうそれは遠い話になってしまった。
 もし函館の両親が生きていたら、どんなことになっていただろう…と時々考える。父の事はホームページの話題やタウン誌「街」の復刊のお蔭で何かと人前で話をする事が多いが、母の事を話す機会は最近少なくなって、家族の中からも母の記憶が薄らいでいく心配を感じていた。今年、大学生になった次男を私の母はとてもかわいがってくれて、ずっとバスケットをしていた孫を応援してくれていた。次男が小学校六年生のときに母は癌の手術をして再び元気になることはなかったため、息子の記憶の中からおばあちゃんの存在は少しずつ消えていくような気がしてきた。
 私は友人たちの親に対する考え方や接し方を聞いていると、私が母に対して何も十分な事をしてあげなかったと、つくづく思い知らされるのだった。母が癌で倒れたとき、息子はまだ小学生だったし、夫が経営している会社も大変な時期だった。いろいろなことが重なり母のために十分な時間を費やすことができなかった。でも、これは単なる言い訳で母が癌になり、もう手の施しようが無いという事実を私は受け入れたくなかっただけだった。
 両親がふたりとも、別々の病院に癌で入院していて、おまけに祖母も体調を崩し今までいた施設に居られなくなり入院中。一度にたくさんの問題を抱えてしまい、どうしていいかわからなかった。母が一番望むことを私はしてあげられなかった、と今でも後悔している。確かに札幌と函館の間を週末列車で通ったが、自己満足の看病だった。母はただ私にベッドの傍に黙って坐っていてほしかったのだ。手や足をさすってもらい、昔話をしたり、札幌の家族の話を聞いて私と穏やかな時間を過したかったのだ。それをわかっていながら、私はしなかった。忙しく動き回り、足りないものをみつけては買物にでかけたりしていた。点滴やモルヒネの管につながれた母を見たくなかったのだろうか、それとも話す言葉がみつからなかったからだろうか。わからない。私にとって母はいつも明るく、元気で尊敬できる女性だった。中学校の教師としてばりばり働いていた理想の女性なのだ。私は母を一生超えることができないと思っていた。母が癌だとわかって死という結果までのたった三ヶ月、とうとう接し方がわからないまま見送ってしまった。「絵里ちゃん、何もしなくていいからここに坐っていなさいよ」と言った母の言葉を最近よく思い出す。
 今年の六月は母の七回忌である。函館で法事をしようかどうしようかずっと迷っていた。
 私ひとりで墓参りにいこうか、と思ったが母の記憶がだんだんみんなの頭から薄らいでいくのはとても悲しいと感じた。函館に住んでいる母の姉も今年90歳になる。この伯母のためにも私たち家族四人が函館に行って七回忌をやろうと決心した。社会人になった長男と大学生になった次男を墓の前で見せてあげなくてはならない。そして、母の事を知っている人たちと元気だった頃の話をする事で母への記憶がまた鮮明になるだろう。
 札幌の我が家に遊びに来て夫とビールを飲み、息子たちと笑いながらトランプをしていた懐かしい母の姿が目に浮かんでくるのだった。



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