娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


父の「トイレ考」を読む

 いつもの事だがホームページにアップする文章を探すために、タウン誌「街」をパラパラとめくっていると、「つれづれなるままに」(2004年10月、506号)というタイトルに目がとまった。

 片足義足の父にとって、天敵は「トイレ」。それは私も知っていたし、父方の祖母からも聞いた話がこの中には書いてあった。しかし、父の言葉で書かれた文章をあらためて読むと、ひとつひとつの情景が私の頭のなかで広がり、聞いていた以上に父の苦労が伝わってきて悲しくなるのだった。 子どものころ父と母と旅行したとき、乗りもので移動するたびに、父はトイレの場所を確認するのだ。そのときはわからなかったが、義足の父でも使いやすいか、きれいに掃除されているかどうかをみていたのだろう。何ヶ所もトイレばかり行くこともあったように記憶している。そのたびに母が父の荷物を持って、トイレの前に立っていた。幼かった私はちゃんとおとなしく待っていただろうか。聞きわけのないことを言って母を困らせなかっただろうか。父の文章を読みながら、遠い昔のことを考えていた。
 母は学校を退職して家のなかにいるようになってからは、本当に父の面倒をよくみていたと思う。晩年の父は家では義足をはずす時間が長くなり、松葉杖を使っていた。湯の川のマンションでは全てがドアだったために、トイレに行くとき、途中3回ドアを手前に引かなくてはならない。松葉杖の父はドアのノブをつかんだら、いったん後ろに下がりそれから片方立てかけていた松葉杖をつかんで前に進み、また同じ動作を2回しなければならない。前立腺癌のホルモン治療で体重が増えていた父にとって、若いころよりもこの動作の繰り返しは大変だった。母は父がトイレに立とうとするとすぐにドアを全部開け、トイレの電気をつけ、便器のふたも開けておくのだ。これを一日何回も、そして夜中も続けていた。昭和26年、母は東京へ旅立つ父を函館桟橋で見送り、これから待っている父の苦労を思い嗚咽したときから、父の支えになる覚悟をしたのだろう。だから、私にとって「こんなこと毎回出来ない……」ということも、母にとっては普通のことだったのかもしれない。
 私は最後、父が入院しているとき、なんの助けにもならなかった。父が車椅子でトイレにいくときも結局、「看護師さんを呼んでくれ」と言われ、私は傍で待っているだけだった。母が生きていたら父は便秘にならなかったかもしれない。

 人はなぜ、その人が生きているときではなく、死んでからいろいろ振り返ったり、考えたりするのだろうか。
 晩年、松葉杖をつきながらトイレにいく父の小さくなった背中を思い出し、片足で送った父の68年間をちゃんと受けとめなくてはならないと思っている。父が亡くなって6年、今年の十月は七回忌である。



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